矢作直樹著「人は死なない」

同様の境地

 

「おかげさまで生きる」を読み終え、全く話にならない本なので、著者について調べました。結果、この本が良さそうでした。今度は失敗しないよう、書店で確認しました。

http://www.inter-esse.net/archives/project/%e7%9f%a2%e4%bd%9c%e7%9b%b4%e6%a8%b9%e8%91%97%e3%80%8c%e3%81%8a%e3%81%8b%e3%81%92%e3%81%95%e3%81%be%e3%81%a7%e7%94%9f%e3%81%8d%e3%82%8b%e3%80%8d

 

リブロ池袋店へ行き、PCでどこにあるか検索しました。場所を印字しましたが、リブロのそのような場所(書籍館)の存在を知りませんでした。

行くと、なんと平積みなっているではありませんか。驚きました。

 

著者とは、色々共通点があります。もしかしたら、どこかで邂逅があったかも知れません。

氏は金沢大学医学部出身です。年齢は1歳違い。私は、金沢大学の哲学科を受験するために、見学に行っています(受験はしていません)。インド哲学科があったからです。入学していたら、山岳部で一緒になっていたかも。

探検家関野吉晴とは、横浜市大探検部で一緒になりました(氏は元々一橋大卒です。卒業後市大医学部に入学)。フィールド――興味ある地域――が異なったため、同行したことはありませんでしたが、行きたい所などについて語り合ったことがありました。

 

ラインホルト・メスナーの引用が多数ありますが、私も彼の1980年代後半までの著作は、ほぼ全て読んでいます。

また、彼が来日し、石井スポーツに来た時、著者は来店しているようですが、私も行っています。

彼が初の単独無酸素で8000m峰に登り、遂にはエヴェレストに登頂しました(単独無酸素)。当時は不可能とされていましたが、特殊な方法、訓練で成し遂げました。

極限まで体と精神を鍛え、単独で8000m峰を登攀することが、最も安全な方法であると私も考えていました。

今回も引用していますが、メスナーのナンガパルバット・ディアミール壁の著書を読み、実際にナンガパルバットを見に、パキスタンへ行きました。

その際、メスナーが登攀不可能と云ったラカポシ北西稜を見に行きました。そのとき撮影した写真を基に、早稲田大学山岳部が大学創立100周年記念事業として、登攀に成功しました(写真撮影時、その地域に入域した戦後初めての日本人が私でした)。

 

そして何より、私が到達した「大きな力」、「大きな流れ」という考え方と、ほぼ同様の境地に、著者も立っています。それ以上に、このスピリチュアルな物事を、科学的に説明しようとしています。

また、全ての物事は繋がっている、自分の身の上に起きる出来事は全部関係していて、それらは、「大きな力」によって齎されている、ということも、同じです。著者はそれを「摂理」と呼んでいます。

「スピリット(霊魂)、マインド(心)、ボディ(体)」、「本体(mental body)、霊体(astral body)、幽体(etheric body))、「霊・心・体」についての説明は、理解し易く、頭を整理してくれました。

私は、これらの説明はエネルギーからできるのではないかと考えています。

蔵本由紀著「同期する世界」

http://www.inter-esse.net/archives/project/%e8%94%b5%e6%9c%ac%e7%94%b1%e7%b4%80%e8%91%97%e3%80%8c%e5%90%8c%e6%9c%9f%e3%81%99%e3%82%8b%e4%b8%96%e7%95%8c%e3%80%8d

安田正美著「1秒って誰が決めるの?」

http://www.inter-esse.net/archives/project/%e5%ae%89%e7%94%b0%e6%ad%a3%e7%be%8e%e8%91%97%e3%80%8c%ef%bc%91%e7%a7%92%e3%81%a3%e3%81%a6%e8%aa%b0%e3%81%8c%e6%b1%ba%e3%82%81%e3%82%8b%e3%81%ae%ef%bc%9f%e3%80%8d

を参照ください。

 

降霊の話が出て来ます。「霊・心・体」についての詳しい説明の後読むと、理解できないこともありません。

この当たりが、オカルト的との批判を浴びているのでしょうか?

 

 

 

「『これまでの経過から期待は持てませんが、補助心臓を装着して再び心機能の回復の可能性に期待するか、あるいは非常に異例なことではありますが、渡航移植をするしかありません』と申し上げました。

そうしたところ、端正で穏やかな娘さんの容貌に似た父親は、まったく逡巡することなく□を開きました。

『これまで十分にしていただきまして誠にありがとうございました。娘の気持ちを考えまして、もうこれ以上の治療は結構です。』と穏やかに、けれどもきっぱりと言われました。横でこれまた本当に優しそうな母親も無言のまま静かにうなずいていました。

二人の顔は、とても自然で穏やかでした。愛娘が急に得た不治の病により寿命であることをすでに悟っているようでした。私は、その短い言葉の中に、娘への深い理解と思いやりをひしひしと感じました。まさに『足るを知る』ということをわきまえられた立派な態度に深く感動し、しばらくは言葉が出ませんでした。ご両親や娘さんは、どのような人生観を持っておられるのか伺ってみたいと思ったほどです。また、治療については今まで説明しながら行ってきたつもりでしたが、もしやこちらの思い込みで過剰な医療の押し売りになってはいなかったか、と遅まきながら反省もしました。」

 

「当時の私は、循環器病の積極的な治療をモットーとする当病院の職員として、あらゆる可能性を探って治療法を向上しようという意気込みでした。その頃も、個人的には決して『死は敗北である』とは思っていませんでしたが、他院での治療が困難ということで当病院に来られた患者さんや家族の方々の意を汲んだつもりで、ぎりぎりいっぱいまで治療を頑張っていました。

恥ずかしながら、その中でこの方のように一度良くなった後に再び悪化し、打つ手が無くなった心不全状態の方の最期の迎え方に思いを致していなかったことを強く反省させられました。

人は、必ずこの世を去る。考えてみれば当たり前のことなのですが、医師がどんなに手を尽くしても、人の寿命を覆すことは絶対にできません。しかし、この厳然とした『真理』を我々はとかく忘れがちなのではないでしょうか。」

 

「現代の自然科学の手法、すなわち現象をきたす要因を分析的、解析的に抽出し、それを  組み合わせることで当該現象を再現するという研究手法は、ルネ・デカルトやガリレオ・  ガリレイによってその有効性が明らかにされました。こうした手法は、高次の概念を低次  の概念で、全体を部分によって説明しようとする試みで、還元主義と呼ばれます。

事物事象を構造化して解析するこの還元主義では、対象とする現象が機械のようなもの   であれば、再現性がよいということになります。極端な例としては、人間機械論のような   説を展開する学者まで出てきました。したがって、対象が人間であれば必然的に精神と体   を分けて考えるようになります。

しかし、最先端の自然科学の一つである量子力学の発展により、このデカルト以来の心身二元論は揺らいできます。

二〇世紀に入ると、マクロ世界の説明に相対性理論、ミクロ世界の説明に量子力学が登場し、それまでの我々の感性で理解できた世界とはかなり趣きが異なる世界が提示されます。量子力学の世界では、電子や光子は波動と粒子が共存した状態をとることができ、その状態がどう観測されるかについては、偶然に支配されるため確率的にしか予想できない、そして電子と比較にならない大きなものとの相互作用が起きると、電子の波が収縮する(幅のない鋭い針状の波に縮み粒子としての電子が姿を現す)とされています。

逆に言えば、観測するための行動は、その粒子のその後の状態に影響を与えるということになる。つまり、精神と物質はまったく別の概念で互いに直接関係することはないという、精神と体の二元論は、量子力学の実験的証拠によって揺らぐことになるのです。

この量子力学が提示した精神と物質の一元論的世界観は、紀元前六世紀のギリシヤ哲学のミレトス学派にその源を見出せます。その思想は、精神と物質を区別せず、すべての存在を生命と精神を備えた『自然』と捉えるものです。しかしその後、エレア派の登場により世界を支配する神性と物質とは別物であるとする二元論にとって替わられることになります。

他方、東洋では仏教、ヒンドゥー教、道教において、万物は一体でありすべては互いに関連し合っているとされていました。

オーストリア出身の素粒子物理学者フリッチョフ・カプラは、自身のみならずジョン・R・オッペンハイマー、ニールズ・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルクといった量子力学の泰斗たちが感得した世界観と、東洋の仏教、ヒンドゥー教等の世界観との間の相似性を指摘し、万物の一体性と相互関連性を究極不可分のリアリティであるとしています。また、ソニーのエンジニアで愛玩ロボットAIBOの生みの親として知られる天外伺朗も、東洋哲学と深層心理学からのアプローチにより、宇宙全体が一つの生命体なのではないかと提言しています。

さらに、理論物理学者のデヴィッド・ホームとその同僚で脳科学者のカール・プリプラムは『二一世紀には科学と宗教が一つのものとして研究されるであろう』という希望的な仮説を提唱しています。また、世界賢人会議『ブタペストクラブ』の創設者兼代表であるアーヴィン・ラズロは、彼の『量子真空エネルギー場理論』によって、生命の誕生と進化の謎を解き明かせるという可能性とともに、すべての存在は繋がっているという事実を科学の側から説明できるといっています。」

 

「現在の生命科学にしても宇宙物理学にしても、その研究成果には目を瞳るものがあり、我々を取り巻くあらゆる事物事象に関する解明は相当なところまで進んでいます。

しかし、これから先、森羅万象のメカニズムの研究がさらに進んだとしても、根源的な問いである『なぜ万物万象がそのように在るのか』という問いに対する解を、人間が得ることはできないのではないでしょうか。

日常的にはほとんど意識することはないでしょうが、よく考えてみると生命の在り方にしても宇宙の成り立ちにしても、我々の生きるこの『世界』は途方もない神秘性に包まれていることがわかるはずです。

そして、有史以来、大半の人々が日常では意識しないにせよ無意識のうちに、人間の考える意思を超えた、いわば『絶対的意思』とも言える存在を感じ取っているのではないでしょうか。

宗教における『神』とは、この人智を超えたすべてを司る『全的でありかつ想像を絶する大きな力』のことに他なりません。

私ももちろんこうした『力』の存在を感じている一人ですが、私はそれを『摂理』と呼んでいます。」

 

私も山の登り方は異なりますが、この境地に辿り着いています。ですから、よく理解できます。著者が物理学、量子力学からもアプローチすることにより、そこに至ったことも理解できます。

 

「それでは、人間の運動能力で動物と比較して優れた能力はないのか。

実は、人間の長距離走の能力は、他の哺乳類に勝るのです。この長距離走の能力のおかげで、原人は効率的に動物を狩ったり、倒れた動物の肉を集めたりすることができたため、アフリカの草原で優位に立つたといわれています。

さて、その長距離走の能力を、長時間高負荷運動が要求される『登山』に用いるのは、最も人間らしくかつ無意味な行為であると私は思います。高所登山は人間固有の行為であり、他の動物にはみられません。動物の中で唯一ヒマラヤ越えをするアネハヅルやインドガンは、渡りの季節に一気に飛翔するだけです。こんな高所をわざわざ脚を使って意味なく登ったり降りたりする動物は、当然のことながら人間の他にはいません。

登山とは人間の限界への命をかけた挑戦であり、考えられないような強い意志による行為です。これまで、このいかにも人間的な登山という行為の中で、様々なドラマが繰り広げられてきましたが、そこではときに我々の理解を超えた現象が起こります。」

 

「メスナーは常に、酸素補給のような強力な人工的手段を用いず、しかも単独または少人数で古典的なスタイルによるクライミングにこだわり、その信念を貫き通しました。

彼は、龍村仁監督のドキュメンタリー映画『地球交響曲第一番』の中で、『山を征服したかったのでも、登れることを証明したかったのでもなく、ただひたすら自分を知りたかったのです。裸の肉体でもって死の地帯でどこまで命の可能性を拡げられるかを知りたかったのです』と述べています。

私かまだ学生だった一九七〇年代の生理学では、そもそもエヴェレストの頂上に人間が無酸素で到達するのは、厳しい低酸素血症になるため事実上無理であると考えられていました。それが、メスナーの壮挙の後に後述するような大規模な研究が行われ、エヴェレストのような超高所では毎分六〇~七〇回といった極端な過換気により、肺胞の中の酸素分圧と肺毛細血管の酸素分圧の差が限りなく小さくなる(肺胞を満たしている水蒸気がほとんどなくなってしまう、また二酸化炭素分圧も通常の六分の一まで下がるため、これらの水蒸気と二酸化炭素による肺胞内の酸素分圧の下がりがほとんどなくなる)ことで、酸素の取り込みが生存ぎりぎりのレベルを維持できることが証明され、生理学の一頁が書き換えられることとなりました。」

 

この過換気を知りませんでした。メスナーが取り入れた手法は、おそらくダイバーのジャック・マイヨールが、グラン・ブルーの世界に入るために取り入れた訓練方法に啓示を受けたのではないでしょうか。自分もジャック・マイヨールからトレーニング方法やヨガを取り入れました。

 

「『人間は実は二つの違う次元の中を生きている。その一方は、ふだんは見えない。この体験が私の人生の最も重要な体験になったのです』と述べています(『地球交響曲第一番』)。

Cさん、Dさんと同様、危機的な状況において、体外離脱を認識していたのでしょう。また、多くの墜落体験に関する調査でも、まったく同じような体外離脱体験が報告されています(ラインホルト・メスナー『死の地帯』)。」

 

「さて、先の一九七〇年のナンガ・パルバットからの脱出行ですが、メスナーは、最終キャンプ出発から登頂、そしてディアミール壁三〇〇〇メートルの決死の下降により、その基部に降り立つまでの三日間、まったく水を飲んでいません。高所の無酸素登山では、激しい過換気になる呼吸だけでも大量の水分を失い、著しい運動量とあわせて、この三日間の水分喪失による体重減少は一〇Kg(彼の体重の一五%)を優に上回ったと思われます。 生理学の常識では高温環境や激しい運動により体液が体重の二~三%失われると運動能力や体温調節能力の低下がみられ、五%以上失われると、循環不全とそれによる脳の機能不全により生命の危険があるということになっています。この三日間の無酸素での登単と相まって、体組織の酸素不足は想像を絶するものであつたと思われます。まさに、『生きていること白体が不思議』だったわけです。

無酸素登頂に関しては、一九八一年にダウラギリI峰に単独登頂した禿博信(八○○○メートル峰の単独無酸素登頂ではメスナーに次いで世界で二人目)が、登頂後一年ほど著しい意欲の減退を経験したと言っています。

また、同じ一九八一年、世界的に著名な米国の呼吸生理学者ジョン・バーナード・ウェストたちによって、実際にエヴェレストで実施された無酸素登頂実験では、ほとんどの隊員が下山後一二ヶ月以上にわたって中枢機能、特に運動機能の低下が続いたと報告されて

います。これは、おそらく高所での極端な過換気で動脈血炭酸ガス濃度の低下が起こり、それによって脳血管が撃縮して血流不足をきたすせいだと考えられます。

その他、四〇日間の低圧室における滞在実験を行い、最終的に七日ほどエヴェレスト頂上と同気圧にした研究では、五人中三人に認識力の低下が認められています。

メスナーのエヴェレスト単独登頂後に始まった、こうした大規模な高所生理学的研究によって初めて高所における様々な知見が得られました。そして、これらの実験から高所登山を成功させるための鍵は『高所順応』であり、高所順応には七七日という日数(三一日

や三六日では不十分)が必要となることがわかっています。」

 

「メスナーの登山は、冷徹な意思と比類なき強い意志に支えられています。しかし、彼は一九八〇年に人類初のエヴェレスト単独登頂に成功したとき、以下のような体験をしたと言っています。

『極限の疲労感の中で雪の上に一人で横たわっていると、突然自分の横に少女が座っているのに気付きました。自分が話しかけるとその少女ははっきりとした声で答えました。幻覚でもない、自分自身と話しているのでもない、実体のあるものが自分の横に座っていました。僅かに残った理性で否定しようとしても、彼女は語りかけてきました。結局、自分のすることは何でも彼女に相談しました。もし彼女がいなかったらあの遠征は失敗に終わっていたでしょう』(『地球交響曲第一番』)

近年このような極限状態における謎の存在の出現が『サードマン現象』と呼ばれるようになりました。

メスナーは常々『スピリット(霊魂)、マインド(心)、ボディ(体)の調和こそが人間本来の姿である』と言っています。彼の言によれば、このスピリット、マインド、ボディの調和が乱れたときに病をきたすということになります。」

 

「近代スピリチュアリズムでは、霊魂はレベルの高い順に本体(mental body)、霊体(astral body)、幽体(etheric body)から成るとされています。また、霊・心・体といういい方がありますが、これは心身(体と脳機能によって活動する心)とそれを司る霊の統一的表現です。日本では、最初にスピリチュアリズムを提唱した浅野和三郎がほぼ同じ概念で、霊魂は神体、霊体、幽体から成るとしています。

いずれにせよ、表現は異なっても、近代スピリチュアリズムにおける霊魂と体に関する本質論は、共通しています。

以下に、その考え方を簡単に紹介してみましょう。

まず、生死に関わらず肉体から離れても存続する存在を仮に『真体』と呼びます(真体は、肉体とまったく同じサイズ、スタイル、個性を持っているが電磁波のように肉眼では見えないとされる)。そして、肉体をまとっている(生きている)真体を『魂』、肉体を脱ぎ去った(他界した)真体を『霊』と呼びます。

人間はコンピュータを内蔵した着ぐるみを着たようなものであり、電源を待った魂がコード(著者注:近代スピリチュアリズムでは『シルバーコード』と呼ばれ、日本では古来『玉の緒』と呼ばれている)でその着ぐるみと繋がり、スイッチを入れた状態になっている。この例えでいうと魂はシルバーコードを介して電気を流し、着ぐるみおよびコンピュータを操作したりメンテナンスをしていることになる。

ここでいう着ぐるみとは肉体、コンピュータは脳、魂によるコンピュータの活動が精神あるいは心、精神活動の状態が意識・無意識、精神活動の結果生まれるコンテンツが記憶である。なお、記憶は肉体の脳だけでなく魂にもカーボンコピーのようにまったく同じように共有される。

魂自体は他の魂や霊と交感することができ、互いの姿が見え、声が聞こえ、自由に空間を移動することができるが、着ぐるみ(肉体)をまとうとそれらの能力は封じられる。ごく稀に着ぐるみをまとっても魂の機能が顕れる人間がいるが、そうした人々が一般に『霊感、霊力が強い人』と呼ばれている人々である。

着ぐるみは、それだけでは動かない。電源を入れて動かすのは魂である。いわゆる体外離脱(幽体離脱)とは、着ぐるみを動かす魂がシルバーコードを切らず一時的に着ぐるみを脱いでいる状態のことであり、死とはこの魂がシルバーコードを切って(電気を止めて)着ぐるみを捨ててしまった状態のことである。そして、魂を失った着ぐるみ(死体)は、朽ち果てていくだけである。

また、憑依とは、他界した真体(霊)が他者(他の魂が動かしている着ぐるみ)の心身が不調なときなどに許可なく入り込み、元の魂を押しのけて勝手に着ぐるみを操作している状態のことである。そして、他界した真体(霊)を意図的に自分に重ねる(通常は降霊役の助けを借りる)状態にすることを交霊という。

なお、自然科学では、コンピュータとその活動およびその結果については研究を重ねているが、それを動かしている魂の存在を前提としていないので、なぜコンピュータが動く(精神活動が営まれる)のかという問いには答えることができない。」

 

「この全的な創造とその運用を司る大設計者、すなわち摂理の存在を感受できるのは人間だけであり、人々は遥かなる昔からその存在を知っていました。最初の宗教は、摂理の存在を知覚したところから始まったはずです。また、現代を生きる我々も、それを心の奥深いところでは感受しているのではないかと思います。

そして、摂理の意思、すなわち万物と万象の『調和』を感じるのではないでしょうか。存在するものにはすべて意味が付加されており、それらはすべて関連し合っている。あらゆる存在は奇蹟としか思えないほどの完全なシステムとして在る。そのシステムが不全を起こしそうになった時、すなわち調和が乱れた時に、復元ないしは排除の力が働く。これこそが摂理の意思である、と私は考えています。

原初の人々は、自分たちが生まれ生きて死んでいく世界、自分たちを取り巻く自然に対して素朴な畏怖と畏敬の念を抱き、そこに創造主の存在を直観しました。そして、同時に霊的現象や霊能者を通して霊魂の存在をも感じ取り、畏れ敬うようになりました。

このように這か昔から、人々は神(摂理)と霊魂を不離の存在として感受してきたのです。」

 

「要は、霊的現象それ自体に意味があるのではなく、そうした現象の見聞や体験を通して受ける啓示、あるいは導き出される理念、真理こそが本質であると私は考えています。」

 

「『正直の頭に神宿る』という言葉がありますが、良心とは人が現世で生きていくための道標となる摂理の声であり、我々はその声に素直に耳を傾けて従い、あるがままに生きていけばよいのではないでしょうか。様々な人間関係の中で、聞こえていてもその声に従えないこともあるかもしれません。心に余裕のないときには、その声は聞きづらくなるかもしれません。ときには、その声に従う勇気が鈍ることがあるかもしれません。また、その声を聞きそびれ、後でそのことに気付き後悔することもあるでしょう。それでも、できる限りその声に従って生きることによって、我々の人生は豊かで意味のあるものになるのではないかと私は考えています。

人の一生は、表面的には寿命の長短や、それぞれが人生の中で負う荷物の大小しか見えないので、見かけ上不公平、理不尽に思えることは多々あります。なぜあの人は夭折してしまったのだろう、なぜ生まれながらに重い障害を負ってきてしまったのだろう、善良に生きているのになぜこんなにつらい目に会うのだろう、などと考えてしまうことが誰にでもあるはずです。けれども、我々の人生の旅は死後も続く、摂理の意思は悠久の生の中で祈り合いかつくよう働いている、と考えれば現世での苦しみや悲しみが多少なりとも癒されるのではないでしょうか。いや、そのように考えないと、矛盾に満ちたようにもみえるこの人生を理解できるものではありません。

人生における様々な失敗や挫折、病気や怪我など自分の身に起こる災厄とは、摂理が個々の人間に、それぞれが自身で責任を負って大切な何かを学ぶために与えた試練なのではないかと私は考えるのです。」

 

「私は、人類の歴史とは、摂理が創造した宇宙の森羅万象の謎、いいかえれば『創造の法則』を、あたかも宝探しのように少しずつ解き明かしながら自分探しをする旅のようなものだと思っています。偉大な発見・発明や芸術から私たちの日々の気づき、営みまで、そのことごとくは摂理の意思の中にあります。我々の身の回りにある事物も実は摂理の配剤なのであり、人間はその謎解きをしながら生活に役立たせてきました。偉大な発見は、人類に摂理の意思の精妙な現れを感得させてくれます。また、人類の意識を高めたり、その行動の可能性を広げたり、自然環境への負荷を減らしたりすることによって、人類に大きな福音をもたらしてくれるものです。

前世紀のはじめに量子力学を生み出した物理学者たちの言葉を待つまでもなく、万物の統一性にみる摂理の力の前に、『我々には知る力はあるけれど、今は何もわからないと知り、謙虚に虚心坦懐に万物万象に向き合っていく』姿勢が大切なのだと私は思うのです。

そして、私たちは摂理により生かされている世界の一部であることを忘れず、この世界と共存・調和し、その謎を解きながら、意識の進化を心がけていけばよいのだと思います。」

 

「いずれにせよ、『足るを知る』ことによって、生きていくことが楽になったり、あるいは他者に寛容になれたりするのではないでしょうか。月並みな言い方になりますが、日々の生活において不要の贅沢をしないよう、また他人にしてもらったことには感謝の気持ちを持つよう心して、前向きに生きていく。この当たり前のことが当たり前になれば、ずいぶんと生きやすくなるはずです。」