沢木耕太郎作「春に散る」

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沢木耕太郎の久し振りの小説ということで、内容は大したことがないと分かっていても、購入してしまいます。作者のノンフィクションは高く評価しますが、フィクションはその限りではありません。読み終えて、良かった、と思えるものはこれまでにありませんでした。この作品も然りです。

でも、アマゾンで予約購入してしまいました。本屋で内容を確認していません。沢木耕太郎、大好きですから。

 

得意分野のボクシング物です。「一瞬の夏」を想起させます。書評には、古希を迎える著者がボクシングにけりをつけるため、とありますが、自分にはその意味が解りません。集大成ということなのでしょうか。

 

著者のボクシングに対する考え方がよく解ります。独特な見方です。実に深い。

 

タイトルから、少し読むと最後がほぼ予測できます。そしてその通りになります。

 

プロットはノンフィクション同様大変練られていることが分かりますが、設定に相当無理があります。いくらフィクションでもです。特にタイトルマッチまでの道程です。

 

上下と長いのですが、一気に読ませます。流石の文章力、筆力です。

 

 筋を追うことができないよう引用してありますので、安心してお読みください。

 

 

 

「甲子園に出場はできなかったが、広岡のボールの速さは実業団や大学野球の関係者のあいだで評判になり、スカウトが高校だけでなく家にも訪ねてくるようになった。

 とりわけ熱心だったのは、県内の製鉄会社の一社と東京の東都大学の一校だった。

 広岡はできるだけ早く家を出たいと思っていた。東京の大学は、授業料を免除してくれるだけでなく、野球部の寮に入れてくれるという。その寮費もいっさい不要というのに強く惹かれて東京に出て行くことにした。父親に迷惑をかけなくて済む。それは、思いやりからというより、父親に対する反発心からだった。もうこれ以上、父親の世話にはなりたくなかったのだ。

 母親は戦後、広岡を産んですぐに死んでいた。自宅で分娩した母親は、助産婦の処置の誤りから産褥敗血症にかかり、二カ月後に死んだのだ。父親は再婚しようとしなかったので、近所に住む母方の伯母が通いの家政婦のような立場で一切の家事を引き受けてくれた。兄と広岡、とりわけ広岡はその伯母に育てられたといってよかった。

 広岡は、幼い頃から、父親の自分を見る眼になんとなく冷たいものがあるのを感じていた。出来のよい兄と比べると、スポーツ以外ではすべてに劣っているからかもしれないと思っていた。だが、あるとき、その様子を哀れに思ったらしい伯母から、父親が冷たいのは、おまえのことを、愛する妻である母親を奪った存在と見なしているからだと聞かされて、すべてが氷解した。

 それからはできるだけ早く自立して家を出ようと考えた。自分には国立大学に入った兄のような頭のよさはない。スポーツ、とりわけ天が与えてくれたこの肩を生かせる野球の世界に行くのが最も自分に合っている。プロの野球選手になること、それが広岡の少年時代からの変わらぬ夢だった。

 広岡は、実業団に入るのと大学に進むのとどちらがプロの選手になりやすいか秤にかけた。結論は実業団だったが、最終的に大学を選んだ。とにかく、できるだけ早く九州から出ていきたかったのだ。

 東京に行き、入った大学の野球部は、部員が百名を超える大所帯で、寮も一軍、二軍、三軍と分かれていた。広岡は入学当初から一軍用の寮に入れられた。一年生で同部屋になったのは、甲子園の優勝チームのキャプテンだった。

 練習でも特別待遇だった。新入部員のほとんどが、先輩たちの練習するグラウンドを取り囲み、膝に両手を当てて中腰になり、意味のない声を上げるだけしかできないとき、広岡は上級生の投手たちと投球練習を始めていた。自分がどれほど期待されているかがわかって、有頂天になった。

 ところが、入学して半月も経たないある日、力を込めて直球を投げていると、不意に肩に激痛が走った。

 その日は練習を中断させてもらって、見学にまわったが、翌日になっても、翌々日になっても痛みが引かない。動かさなければ痛みはないのだが、ボールを投げようとすると、肩に激痛が走る。監督に勧められて大学病院で精密検査を受けた。結果は、俗に野球肩と言われる関節唇断裂だった。

 高校時代から、練習でも試合でも力任せに速球を投げつづけ、投げたあとの肩の手入れをまったくしてこなかった。学校には指導者にふさわしい野球部の監督がいなかったので、自分の好きなように練習し、好きなように投げつづけていた。知識のないまま肩を酷使していたツケが回ってきたのだ。

 医師によれば、しばらく使わなければいくらかよくなるが、完全に元に戻ることはないという。

 それから三ヵ月、病院だけでなく、整骨院をはじめとしてさまざまなところで治療を受けたが、ついに以前のような速いボールを投げられるようにはならなかった。投手としての投球だけでなく、かりに野手に転向しても、三塁から一塁までもまともな送球ができないということもわかった。

 どうしたらいいのか。監督から、野球部の寮を三軍に移り、マネージャーになるという道も提示された。しかし、それには耐えられそうになかった。

 広岡は、自分の将来をプロ野球の選手になることと一途に見定めていた。それ以外の人生など考えたこともなかった。その野球の道を断たれて、絶望的になった。そして、日に日に気持が荒んでいった。どうしても気持を鎮めることができない。

 そんなある日、山手線の電車に乗っていて、降りるため車両内を歩いていると、大きく脚を投げ出している男の靴に引っ掛かってしまった。

『馬鹿野郎!』

 声を上げられ、よろめくところを踏みとどまった広岡が、振り向いてその男を睨みつけた。

 その顔がよほど険しかったらしく、声を上げた男が、恐れるように眼をそらせた。

 それからというもの、広岡は荒んだ心を持て余すと、山手線に乗って、車両から車両を渡り歩いた。そして、席に座って大きく脚を投げ出している男を見つけては、その脚を払うようにして蹴飛ばしていった。

『何をするんだ!』

 いまにも立ち上がりそうになった相手も、大柄な広岡の険しい表情を見ると、そのまま黙り込んでしまう。

 広岡には、乗客の迷惑も顧みないで脚を投げ出している奴らが悪いのだという思いがあった。自分は間違ったことをしているわけではない、と。しかし、広岡は、本当は殴り合いをしたかったのだ。それまで、喧嘩など一度もしたことがなかったが、そのときの広岡は喧嘩がしたかった。

 ある日の夜遅く、いつものように前に投げ出された脚を蹴飛ばして歩いていると、蹴飛ばされた若い男が声をかけてきた。

『待てよ!』

 広岡が振り向くと、若い男が言った。

『謝れよ』

『謝るのはそっちの方だろ』

 すると、若い男は席から立ち上がり、微かに笑いながら言った。

『喧嘩を売ってるのか?』

 その若い男は広岡より身長が低く、しかも痩せぎすの男だった。

 広岡はこんな貧弱な体格で自分に因縁をつけるということが信じられなかった。

 そこで、不審に思いながら言った。

『売りはしないが買うことはできる』

 すると、若い男は、今度ははっきり笑いながら言った。

『馬鹿が粋がってやがる』

 そして、うんざりしたように続けた。

『次の駅で降りようぜ』

 広岡は、次の駅に着くと、先になって電車を降りた。

 人影がまばらなプラットホームで向かい合うと、その若い男は相変わらず口元に薄い笑いを浮かべたまま広岡に言った。

『駅から出るのは面倒だ。ここでいいか』

 広岡がうなずくと、若い男は拳を握った両方の手を胸の前に構えた。喧嘩に慣れていなかった広岡は、それにつられて自分も拳を握って構えようとした。

 そのとき、若い男の右の拳がいきなり広岡の左の頬に飛んできた。そのパンチはスピードはあったが、力はほとんど入っていない軽やかなものだった。しかし、綺麗に頬を打ち抜かれた広岡は、一瞬意識が飛び、腰を落として片膝をガクンとプラットホームについてしまった。

 それを見て、若い男は何も言わず、サッと振り向くと、近くの階段を駆け昇って消えてしまった。立ち上がり、その男のいない階段を見上げながら、広岡はいったい自分に何が起こったのだろうと茫然とした。

 そして、時間が経つにつれて考えはひとつのところに収斂していった。あれはボクシングの構えではなかったか。あの若者はボクサーではなかったか、と。

 それが広岡がボクシングというもの、ボクサーというものに遭遇した初めての経験となった。もちろん、それまでもテレビでボクシングの試合を見たことがなかったわけではない。だが、ボクシングというものが、たった一発で、しかもあれほど軽やかな一発で、人を倒すことができるものなのだということを身をもって知ったのはその夜が初めてだったのだ……。」

 

「『俺はあと何年かすると七十になる』

 佐瀬が言った。俺も同じだ、と広岡が相槌を打とうとすると、その前に佐瀬がうんざりしたように言った。

『生き過ぎてしまったよ』

 それは佐瀬のボクサー引退後の人生が必ずしも順調ではなかったことを物語っているのかもしれなかった。

『そんなことはないさ』

 広岡は否定したが、佐瀬にはどこか人生を降りてしまったようなところがあるのを感じていた。

 佐瀬はそこで黙り込んでしまったが、しばらくすると激したように話しはじめた。

『世界戦でノックアウトされたとき、俺が控室で泣いていると仁が言ったよな。泣くな。自分の部屋に戻ったら、いくら泣いてもいい。死ぬまで泣くがいい。だけど、ここでは泣くな。歯を食いしばれ、唇を噛みしめろ。唇から血を流しても、涙は流すな。ここはまだ戦場の続きだぞ』

 確かにそんなことを言ったかもしれないなと広岡は思った。控室では、佐瀬の母親が周囲の人に頭を下げつづけている。それなのに当の佐瀬が人目もはばからず泣いているのが耐えられなかったのだ。

『仁がいなくなって、やはり俺は世界チャンピオンにはなれないのかと絶望的になるたびに、いつもおまえの言葉を思い出していた。歯を食いしばれ、唇を噛みしめろ。血は流しても、涙は流すな。そうして頑張りつづけたが、ついに世界チャンピオンにはなれなかった』

『でも、世界三位になった』

『世界チャンピオンになれなければ、たとえ世界一位になろうが同じことだ』

 それはある意味で正しかった。ボクサーには二つの人種しか存在しない。チャンピオンとそれ以外のボクサーだ。ボクサーは自分より強いボクサーがいるということに我慢できず、そのボクサーを打ち破るためにトレーニングを重ねる。そして、ついに自分より強い相手がどこにもいなくなった状態のボクサーをチャンピオンと呼ぶのだ。

 チャンピオンというのは唯一無二の存在のはずである。だから、かつて広岡や佐瀬を育てた真拳ジムの会長は、偶然世界王座についてしまったような二流の王者を日本に呼び、ホームタウン・ディシジョン、地元有利の判定を出させてベルトを奪い取るというような行為を嫌悪していたのだ。本物のチャンピオンを倒してこそ本物のチャンピオンになれるのだと。佐瀬の不運は、戦った相手が本物中の本物のチャンピオンだったということにあった。

『世界チャンピオンにもなれず、不動産の仕事も中途半端なまま放り出し、酒田でのジムの経営にも失敗した……負け犬だ』

 佐瀬が自嘲するように言った。

『だが、おまえには故郷がある』

 広岡が佐瀬の心を落ち着かせるように静かに言った。

『なにが故郷なものか!』

 その言い方は、広岡が驚くほど激しいものだった。

『兄さんたちがいるじゃないか』

『兄弟なんか、糞くらえだ。俺は親類ともいっさい付き合いをしていない。どこにも訪ねて行かないし、誰も訪ねても来ない。たまに役場の若造が、まだ死んでないか確かめに来るだけだ』

 佐瀬はこの地でただひとり孤立して生きているらしい。佐瀬の顔に表れている淀みのようなものは、孤立している者の持つ、周囲への苛立ちや憤りから来るものだったのだ。

『海も山もある。いいところじゃないか』

 広岡が素直に思ったことを口にすると、佐瀬は囗を歪めるようにして言った。

『こんなところ、金があれば、明日にでも出ていくんだが、先立つものがない』

『ニカ月に一度、通帳に振り込まれるわずかな年金で食いつなぐだけしかできない』

 そう言うと、また佐瀬はふっと考え込むように囲炉裏の灰に視線を落とした。

 そして、しばらくして顔を上げると、広岡の顔をじっと見つめて言った。

『仁、俺は生きているか?』

 死んでいる。サセケン、おまえは死んでいるぞ。囗にまで出かかったが、広岡はその言葉を呑み込んで言った。

『……生きてるよ』

『死んでないだけじゃないか?』

 死んでいないだけではないか。佐瀬のその問いは広岡自身にも突き刺さってくるものだった。自分もまた死んでないだけの存在なのではないのか。心臓発作で倒れたときも、たまたま死なずに済んだだけで、生き残ったいま、何をどうすればよいかわからないまま、こうして昔の友人を訪ねたりしている……。」

 

「ビールのグラスが空になっていた。しかし、まだ喉の渇きは収まっていない。

『もう一杯、ビールを貰えますか』

 女将が出してくれた冷たいビールを飲んでいると、日本に帰ってきてからのことが切れぎれに甦ってきた。

 甲府の刑務所にいる藤原は家族と離れ離れになっていた。山形の佐瀬は周囲との付き合いを断ってひとりで生きていた。横浜の星は大切な女性を失って打ちひしがれていた。自分は自分で心臓の発作という爆弾を抱えて戸惑っている。

 離散、孤立、喪失、病苦。四人が四人とも、齢をとった者が見舞われる困難の前に立ちすくんでいる。それらの困難は老いの必然と受容すべきものなのか、それとも克服すべきもの、抗すべきものとして存在しているのだろうか……。」

 

「――だが、それにしても、壮年期の自分のすべてを注いだ対象であるはずのあのホテルが、いま、妙に遠く思えるのはどうしてだろう……。

 広岡が過去に思いを巡らせていると、佳菜子が遠慮気味に囗を開いた。

『この近くに……』

『この近くに?』

 広岡が自分の思いから離れ、復唱するように繰り返すと、佳菜子が続けた。

『ええ、この近くに運河が流れているんです。運河というのか水路というのかわかりませんけど、多摩川から引いた水の流れがあるんですね。その両岸に桜の並木があって、春になるととても綺麗に咲くんです。わたしも今年の春が初めてだったんですけど、あんなに長くどこまでも続く桜並木は見たことがありませんでした』

 広岡は、日本を出るまで桜などというものに関心を抱いたことはなかった。

 ところが、アメリカで暮らすようになって、桜が気になりはじめた。そして、実際に、ワシントンやポートランドで日本から贈られたとかいうソメイヨシノを見たりした。だが、なんとなく花びらが白すぎるような気がしてならない。日本で見ていた桜はもう少し薄紅色が濃かったように思う。もっとも、テレビで日本の桜の映像を見ても、やはり白っぽかったから、記憶が色を鮮やかにしているだけなのかもしれないとも思う。実際はどうなのだろう。来年の春に、その水路沿いの、どこまでも続くという桜並木で確かめてみよう。そう考えはじめて、果たして自分はその桜を見ることができるのだろうか、と思った。

 そのとき、激しい衝撃を受けた。

 心臓の発作で倒れて以来、残されている時間はそう多くはないのかもしれないと思うようになっていた。しかし、これまで、自分の命の限界をはっきりと長さで意識したことはなかった。広岡は、自分が『そのときまで』生きていられるかと初めて思ったということに衝撃を受けていた。

 桜が咲くまで、あと九ヵ月……。」

 

「『どうして』

 広岡が重ねて訊ねると、翔吾が大きな息を吐き出すようにして言った。

『……戦う理由が見つかったからだ』

 翔吾の囗にした、戦う理由、という言葉が広岡の胸に強く響いてきた。自分もまた常に戦う理由を探し求めていた。

 相手を叩きのめし、キャンバスに這わせる。そんな無残なことを何故しなくてはならないのか。それは世界一の存在になるためだ。どうして世界一の存在にならなければならないのか。それは世界で最も自由な存在になるためだ。リング上で、自由なひとりが、自由なひとりと、より自由になるために戦う。それは自由を奪い合う戦いといってもよい。相手の自由を奪えば、自分がより自由になれるからだ。そのようにして自分も二十七の戦いをしてきた。だが、二十七番目の試合を終え、世界で最も自由な存在になるという究極の目標が消えてしまったことを知ったとき、リングを去ることにしたのだ……。」

 

「『ヘミングウェイも散々ですね』

 そして、真田が真顔に戻って言った。

『君は『五万ドル』を駄作だと思った』

『駄作かどうかはよくわかりませんが、とにかく自分にはつまらなく思えました。ただ……』

『ただ?』

『ただ、あの最後に大逆転をする箇所は面白かったです』

『戦う二人がロー・ブロウの応酬をするところですね?』

『はい。倒した方が負けになり、倒された方が勝ちになる。勝ちたくないために倒れず、負けるために相手を倒す……』

『そうですね。あのどんでん返しのアイデアは確かに秀逸ですね。ヘミングウェイがボクシング関係者の誰かにその話を聞いたのか、自分で思いついたのかわかりませんが、これだ、と思ったのがよくわかるような作品ですね』

『それと……自由だということがわかりました』

『自由? 何かですか』

『ボクシングというか、ボクサーが』

 広岡が言うと、真田が身を乗り出すようにして訊ねた。

『ほう。どういうことですか』

 実は、それこそ広岡が感想文に書こうとしたことだった。

『あのジャックというボクサーは、ロー・ブロウを受けたとき、簡単に倒れて反則勝ちすることもできました。でも、それを必死に耐え、逆にロー・ブロウを放って反則負けをする道を選びました。ボクサーは勝つも負けるも自分で選ぶ自由があるんだなということがわかります。野球にはひとりで勝ち負けを選ぶ自由がありません』

『なるほど』

 真田は興味深そうに広岡の顔を見た。

『それと……』

 広岡は続けた。

『ボクサーはひとりきりなんだなと思いました。周囲に誰がいても、たとえトレーナーやマネージャーがいても、ボクサーは孤独なんだなと』

 広岡が言うと、しばらく真田は黙り込んでしまった。広岡は、内心、何かまずいことを口にしたのではないかと焦った。しかし、そうではなかったらしいことがすぐにわかった。真田の口調がそれまでと違って熱いものになっていたからだ。

『そうです。ボクサーは自由なんです。リングに上がったボクサーは、相手を叩き伏せて意気揚々とリングを降りることもできれば、叩き伏せられてセコンドにかつがれながら降りることもできる。どちらも、すべてひとりで決断し、決定した結果です。リング上のボクサーは無限に自由です。しかし、ボクサーは無限に自由であると同時に、無限に孤独なんです。ボクサーは、リングに上がれば、ただひとりで敵と向かい合わなくてはならないからです。それはとても恐ろしいことです。たとえ事前にいくら情報を手に入れていたとしても、グラヴとグラヴを合わせてみなければ、相手がどういうボクサーかはわかりません。戦いに赴くボクサーは、未知の大海に海図も持たずに小船で乗り出していく船乗りのようなものなんです。無限に自由でいて、無限に孤独。それがボクサーの本質です。でも、それはボクサーだけのものじゃない。人間というものは本質的に無限に自由でいて無限に孤独なものなんだと私は思います。ボクサーは大観衆の眼の前で、しかも一時間足らずの試合時間の中で、その人間の本質を見せてくれているんです』

『リングに上がった二人のボクサーは、どちらがより自由に振る舞えるかを競い合っていると言ってもいいかもしれません。ボクサーは、リングの上で相手よりさらに自由であるために、日夜、必死にトレーニングを積んでいるんです』

 真田は、そこで、語り過ぎたことを恥じるかのように苦笑してから、広岡に向かってあらたまった口調で言った。

『このジムに入ってくれますか』

『はっ?』

 広岡には、言われていることの意味がよくわからなかった。

 どうやら、ジムに入ることができるらしい。しかし、真田が囗にしたのは『入っていい』でもなければ『入りなさい』でもなかった。

 このジムに入ってくれますか……。

 茫然としていると、真田がさらに言葉を重ねた。

『君のような若者に入ってもらうためにこのジムを作ったんです』

 そのときの広岡に真田の言葉の本当の意味がわかったわけではなかったが、体の奥底から強烈な喜びが湧き起こってきた。

 高校三年の秋、いくつかの大学や実業団の野球部の関係者から入部を勧められたときも嬉しくないことはなかった。だが、そのときは、自分の肩という肉体の特別な箇所を認めて勧誘されているという感じが濃厚だった。しかし、いま眼の前にいる真田は、自分という存在そのものを認めてくれているように思えた。

『ありがとうございます。入らせていただきます』

 そう返事したとき、それはこれまでの自分の人生にとって、最も誇らしい瞬間であるような気がした。なぜなら、自分が、初めて真田のような本物の『大人』から『君は何者かであるんだよ』と言われているように思えたからだ。『君は何者かになれるんだよ』と。

 広岡が真拳ジムに入るに際して、真田に出された条件はひとつだけだった。それは大学を続けること、というものだった。

『大学を出ても世界チャンピオンになれるということを、日本人に知らしめたいんです』

 真田は冗談だか本気だかわからないようにそう言って、笑った。」

 

「翔吾と佳菜子がチャンプの家の一員になるという。そのことに藤原や佐瀬や星が浮き立つような気分になっている。広岡もまた、自分が同じように感じていることに気がつき、戸惑った。

 どうしよう……広岡が考えていると、佳菜子が言った。

『こうなると思ってました』

『何か?』

 広岡が訊ねた。

『黒木君がチャンプの家で暮らすこと』

『どうして?』

『黒木君が翔吾という名前だからです』

『どういうこと』

『里見八犬伝と同じです』

『里見八犬伝?』

 広岡がおうむ返しに訊ねた。

『広鬨さんを最初にアパートへお連れしたとき、仁一の仁は里見八犬伝から来ている名前だって話してくれましたよね』

 佳菜子が広岡に言った。

『覚えてる』

『そのあとで、里見八犬伝を読んでみたんです。マンガでしたけど』

『里見八犬伝と翔吾がチャンプの家で暮らすことに何か関係があるのかな』

『里見八犬伝では犬という名前のついた人が次々登場してきますよね、犬塚とか犬山とか』

『それが?』

『気がつきませんでしたか?』

『わからない』

『黒木君は……五番目の住人になることになっていたんです』

 広岡には佳菜子の言おうとしていることがまったくわからなかった。佳菜子はしばらく黙り込み、おもむろに囗を開いた。

『広岡さんは仁一で、一です。藤原さんは次郎で二です』

『そうか、サセケンが健三で三だな』

 藤原が囗を挟んだ。

『ええ。星さんは、亡くなった奥さんの願いを聞いて弘を弘志と名前を変えましたよね。それは奥さんが星さんに四という字を与えようとしたんだと思います』

 星が息を呑んだ。

『あいつが……俺に……四を?』

『たぶん』

『そして、翔吾が五というわけか』

藤原が言うと、佳菜子が囗を開く前に、佐瀬が上気したような顔つきになって言った。

『チャンプの家の五人男の五人目は、猫のチャンプではなくて翔吾だったのか!』

『犬のつく名前ではなく、数を背負った名前ということなんだね』

 星が確かめ、佳菜子がうなずいた。

『すると佳菜ちゃんは何になるんだろう』

 藤原が首をかしげながら言った。

『佳菜子の菜で七なのかな』

 佐瀬が言うと、藤原が首を振った。

『少し無理があるな。それに六がいない』

 佳菜子はしばらく黙っていたが、意を決したように囗を開いた。

『六はわたしです』

『どうして?』

 藤原が佳菜子に訊ねた。

『土井というのは母の再婚相手の姓で、死んだ父の名字はムツウラというんです』

『ムツウラ……六つの浦?』

『はい』

『そうか、佳菜ちゃんは本当は六浦佳菜子というのか』

 藤原が言うと、佐瀬が言った。

『そうすると、まだ七と八が現れてないということなのかな』

『さあ、わたしにもそこまではよくわからないんですけど……』

『いや、もしかしたら、六までかもしれないな』

 星が何かに気づいたように言った。

『ほら、昔、真田会長が言っていたことがあるだろう。六頭の竜……』

『あっ、そうだ。日車、というやつ……』

 藤原の言葉に導かれるようにして、広岡も一挙に思い出した。

 古代の中国では朝日は六頭の竜に曳かれた車、『日車』に乗って昇ってくるとされていたという。初期の真拳ジムは会長の真田とトレーナーの白石と四人のボクサーの六人だけだった。会長は、この六人を六頭の竜になぞらえ、一緒に真拳ジムという太陽を昇らせようと言っていた。真拳ジムを世に知らしめようと。

『仁がアメリカから帰ってこなくなって、会長は竜が一頭いなくなってしまったと嘆いていた』

 藤原が言うと、佐瀬がつぶやいた。

『そうすると、この六人が新しい六頭の竜ということになるのかな』

『俺たちが曳く太陽は何なのだろう……』

 星が誰にともなくつぶやくと、佳菜子が令子を見て言った。

『会長です』

『お嬢さん?』

 佐瀬が驚いた声を出すと、令子が大きな声で笑って言った。

『わたしが太陽なら、朝日じゃなくて夕日になってしまうわよ』

『でも、どうしてお嬢さんが』

 藤原が佳菜子に訊ねた。

『会長のお名前は令子です。令は零、○です』

『あっ、確かにそうだ、一から六までの竜が零の太陽を曳き上げるのか』

『わたしなんか曳き上げたって、何にもなりはしないわよ』

 令子がさらに冗談にして笑い飛ばそうとすると、佳菜子が真面目な口調で言った。

『それは、きっと、会長の望みを叶えるということだと思います』

『令子……さんの望みは何です』

 陰で呼び捨てにしている星が、令子の名前を言いにくそうに口にしながら訊ねた。

『そうね……わたしに望みなんていうのはもうないも同然だけど……もしあるとすれば、やっぱり、世界チャンピオンをうちのジムから出すことかもしれないわね』

『そうか。俺たち六頭の竜が曳き上げる太陽は、令子さんが手にする世界チャンピオンのベルトということになる』

 星が言った。

『そうか、世界チャンピオンか』

 藤原が繰り返した。

『翔吾を世界チャンピオンにすればいいんだ』

 佐瀬がうなずきながら言った。

『真拳ジムとしては大塚じゃなくて翔吾でもいいんですか』

 広岡が令子に訊ねると、それまでウーロン茶を飲みながら静かにみんなの話を聞いていたトレーナーの郡司が囗を開いた。

『黒木君はもう立派に真拳ジムのボクサーです』

『そうね。大塚でも黒木君でも、もし世界チャンピオンになってくれたら、父に何ひとつ親孝行できなかったわたしが、最高のプレゼントを贈ることができる』

 令子はそこで言葉を切り、続けた。

『そして、いつでもこのジムを閉められることになるわ』

 そのとき、広岡は、自分が日本に帰ってきたのはこのためだったのかもしれない、と思った。」

 

「終盤、大塚の連打を浴びて、翔吾がまたグラリとしたが、そこでゴングが鳴った。

 コーナーに戻ってきた翔吾は、佐瀬の注意の言葉も耳に入らないらしく、ぼんやり天井に視線をやっていたが、不意にリング下の席に座っている広岡の方に顔を向けた。

 その眼を見て、山越戦のときの記憶が呼び起こされた。

 ――同じ眼だ。あのときと同じく自分に何かを問いかけている。

 山越戦ではインサイド・アッパーを打つためロープ際に誘い込むことの許可を求めているとわかった。しかし、広岡には、いまの翔吾が何を欲しているかわからなかった。翔吾は何をしたいのか。

 ――だが、いい。おまえはいま絶望的な状況に追い込まれている。それを突破しようとして、おまえが考えに考えたことなのだろう。おまえを信じよう。たとえそれが奈落への道であってもかまわない。そのあとのことは引き受けた。やってみるがいい……。

 広岡が大きくうなずくと、翔吾はうっすらと笑みを浮かべたようだった。そのとき広岡は、自分が他者に対して、その存在のすべてを無条件に受け入れたのは初めてのことだったのではないかと思った。

 第九ラウンドのゴングが鳴った。

 翔吾は足が動かなくなってきただけでなく、ガードも低くなりはじめた。そこを大塚に狙われてパンチを食らう。

 しばらく打たれるがままにされていたが、突然、翔吾がほとんど破れかぶれとでもいうような荒々しさで大きなフックを振るいはじめた。右、左、また右、左。しかし、そのパンチが一発も大塚に当たらない。

 打ち疲れたのか腕がさらに下がり、ガードするものがなくなった顔面が、がら空きになった。ガードだ、ガードをしろ。広岡は祈るように囗の中でつぶやいていた。

 その顔面に大塚の右のストレートが打ち込まれた。それまでの大塚のパンチは、ピシッという鋭い音を立てて翔吾の体に当たっていた。だが、そのときのパンチは、重い物どうしが衝突するときのドスッという鈍い音がした。

 翔吾は棒立ちになり、左、右、左、右と大塚の連打を浴びつづけた。体が強風にあおられる樹木のように揺れている。翔吾にはもはや反撃する力は残されていないかに見える。

 観客は熱狂した。いよいよ終わりかもしれない。見事なアウト・ボクシングを続けてきた大塚が、ついにラッシュして、決着をつけようとしている。あとは止めの一発がどこに入るかだけだ……。

 しかし、不思議なことに、翔吾の眼はまだ死んでいなかった。危ない、と思いながら、広岡には、まだ何かが起こりそうな気もしていた。

 大塚は、さらに左、右とストレートを翔吾の顔面にクリーンヒットさせると、初めて足を止め、距離を詰め、左フックで翔吾の右の顎を打ち抜き、さらに体のひねりを利かせて返しの右のフックを放った。

 そのとき、翔吾はすっと体を沈めた。そして、大塚のパンチが頭の上をかすめた次の瞬間、左斜め前に一歩踏み出し、体を起き上がらせると同時に、伸び切った大塚の右の脇腹に、ひねりの利いた左のフックを叩き込んだ。

 そのパンチがめり込んだところは、大塚の上体がフックを打つべくわずかに回転していたため、背中に近い脇腹だった。完璧なボディー・フックだったが、きしんだのは、あるいは肝臓ではなく、キドニー、腎臟だったかもしれない。

 キッドのキドニー!

 大塚は一瞬息を眷むように動きを止めたが、次の瞬間、ストンと膝から崩れ落ち、前のめりに倒れた。

 観客は何か起きたかわからず、茫然としている。いままで圧倒していた大塚が不意に倒れた。観客には翔吾のボディー・フックが見えておらず、見えていてもどれほど威力があるかわからなかったのだ。レフェリーがカウントをしはじめて、多くの観客に大塚は翔吾のパンチによって倒れたということがわかったらしく、悲鳴のような喚声が湧き起こった。

 大塚は起き上がろうと必死にもがいたが、両手をついて、上半身を起こすのがやっとだった。

 翔吾は大きく息をつきながら、ニュートラル・コーナーで、レフェリーのカウントが十まで数えられるのを待った。

『……エイト、ナイン、テンー』

 勝った。

 死の淵まで、敗北の底まで近づいていた翔吾が、大逆転で勝った。

 翔吾は喜びの表情をあらわすことなくリングの中央に歩み出すと、小さく右手を挙げ、天井を見上げた。

 大塚を倒すことで、翔吾はまた階段をひとつ昇った、と広岡は思った。

 東洋太平洋のタイトルを取ったからでもなく、世界タイトルへの次期挑戦権を得たからでもない。絶望的な状況の中でひとり危険な海に乗り出し、ひとりで航路を見つけ、ひとりで嵐を乗り切ることができたからだ。」