古谷経衡著「『意識高い系』の研究」

  題名につられて購入しましたが、失敗でした。

「意識高い系」は意識が高い人とは全く異なります。本書では意識高い系とリア充を対比します。土地――親所有、主に首都圏――とスクールカーストをキーワードとして、分類します。階層の特徴を述べます。更に、意識高い系は階層内で幾つかに分類されます。

 これらの論は、それはそれで成るほどとは思わせます。しかし、学術的ではありません。一部データを用いてはいますが。

 おそらく誰が読んでも途中で「意識高い系」は著者自身のことと気付きます。そうなのです。著者の略歴を見れば一目瞭然です。それに気付きますと、この著作は著者自身の鬱屈した不満のエッセイとなってしまいます。引用が少ない理由です。

 意識高い系にならざるを得なかった不満を並べながらも、自分は大学に推薦入学で入ったのだから、多くの意識高い系の人とは異なるなどと述べる体たらくさです。

 

 

 

「とてつもなく高い自己評価、根拠なき自信、そして他者への見下しや蔑視。むろん、それが客観的に確たる経験や実績に裏打ちされたものであるなら、まだ得心が行く。しかしそういった『実態』がまるでゼロであるのにも関わらず、己の自意識のみか肥大していくこういった連中を現在では広く『意識高い系』という。

 彼らを少し離れた地点から観察すると、その内実はどうあれ、まるで輝ける生活を送っているように見える。毎度のセミナーへの参加、異業種交流会で獲得した名刺の数々とそれに付随する人脈、今日は○○で知り合ったOO系の社長と飲みに行く、明日は久しぶりに○○時代に同僚だったAと○○バーで将来の起業のこと・日本社会のことなどについて語り……云々。さもその生活は充実したもののように観測できるのである。

 あるいはもっと露骨に、高いホテルや、高いワインを飲んでいる自分(一人ではない)を積極的にSNSの中で開陳している場合すらある。嘘かほんとかわからぬが、そういった人々は新幹線のグリーン車に座っている自分の写真を載せ、『今日の安宿』などと自嘲的にへりくだりつつパークハイアットに泊まっている様子を開陳するのである。

 こういった人々は、しばしば『リア充』と混同されるきらいかある。リア充とは『リアルが充実している状態』を指し、その状態にいる人間を指す言葉だが、確かに豊富な人脈を持っているように観測でき、さらにその人脈の中でパーティーや夜遊びなどもこなしているさまがうかがえ、瀟洒な生活がちらと垣間見えるから、混同されるのは無理からぬところである。」

 

「まず、本書で展開されるリア充の定義は次のとおりである。

 

 ①土地に土着している(先住民=ジモティ)

②その土地は両親など(上級の親族)から相続したもの(同居含む)である

③『スクールカースト』においては、第一階級に所属していた(支配階級)

④右記を踏まえて、他者へのアピールの必要性を有さない(自明性、閉鎖性)

⑤よって自己評価は概ね相応である(プライドの類には概して無頓着)

 

 一方、『意識高い系』の定義は、右記リア充とは正反対であり、次のとおりである。

 

 ⑥土地に土着していない(後発の賃借人または分譲住宅取得者=よそ者)

⑦その土地を両親など(上級の親族)から相続していない

⑧『スクールカースト』においては、第一階級に所属せず、もっぱら第二階級に所属し

  ていた(中途階級)

⑨よって、承認経験が乏しいために、必要以上に他者へのアピールを欲する(承認欲求、

  開放性)

⑩自己評価か不当に高い(異様にプライドか高い)

 

 ただし、『意識高い系』は、⑥と⑦の土地の恩典の部分をめぐって、さらにもう一つ、分類を細にする必要かある。それは生まれながら大都市部に住み、上級の親族から土地を相続『している』土着の民にも関わらず、⑧において恵まれない(中途階級)であるがゆえに、結果行きつくところの心理が⑨⑩と同じになり、『意識高い系』と同じになってしまった人々のことである。

 つまり、『意識高い系』には2種類か存在し、⑥~⑩のすべてに当てはまるものを『上洛組』、右記の⑥と⑦のみ当てはまらないが結局『意識高い系』に包摂される存在、つまり大都市部の土着民でありながら『意識高い系』に『なってしまった』人々を『在地下剋上組』と呼ぶことにする。

 大別してまとめると、リア充と『意識高い系』の決定的な違いは次のとおりである。

 

 1)上級の親族から受け継いだ土地に土着しているか否か(ただし細分類あり)

2)『スクールカースト』においては、第一階級(支配階級)に所属していたものか、

  あるいはもっぱら第二階級(中途階級)に属していたものか

 

 これによってリア充と『意識高い系』を容易に区別することかできる。

 当然のことながら、1)に対してYESならリア充でNOなら『意識高い系』であり、2)では前者かリア充で後者が『意識高い系』の苗床となる。この部分の細部の解説は後述する。取り急ぎ、リア充と『意識高い系(2種)』が存在することを押さえていただきたい。」

 

「この国は土地の流動性か低い。それは、いわゆる『持ち家政策』(新築住宅の取得)が戦後の国策となった結果、個人が超長期の住宅ローンを組んで土地に執着することが、『企業社会』の完成とともに社会のスタンダードになったからである。これにより、高度成長期を経ておおむね70年代までに大都市部やその周辺などに土地を手に入れた中産階級は、実質的にそのままひとたび購入した不動産の上に土着し、時間の経過とともに同じ土地で二世・三世か誕生する。

 よって、この上級の親族(両親など)から土地を受け継いだ世代の青年層までか『生まれなからに』土地を媒介とした濃密な人間関係の中核を形成しており、即ちこれをリア充と呼ぶ。

 彼らはなぜ住み慣れた土地を離れて自活しないのかというと、長期不況によって実質賃金か伸び悩む中、ますます青年層の雇用情勢は逼迫し、不動産を取得するだけの資金的余裕かないからである。

 あるいは、バブル経済が崩壊したとはいえ、住宅価格は高止まっており、上級の親族から提供された土地に土着したほうが、経済的なメリットが圧倒するからである。よってリア充とは、必ずしも所得水準の高低を指すものではなく、むしろ上級の親族から提供された土地に住まわざるを得ないほど、まとまった個人資産や与信を有していない場合が多い。しかし彼らは住宅費を支払う必要かない分、交友や遊興に費やすだけの余裕を有しているのである。

 そしていざとなれば親の資産や貯蓄、相続に期待すればよく、将来不安や危機感も薄い。それが、刹那的な遊興費用の捻出への大きなインセンティブとして働いている。だから、貯蓄かゼロでも、実際には貧困層ではなく、リア充になりえるし、むしろ所得の高低とは無関係で、将来不安を抱えていない、閉鎖的な人間関係の中で生きているのである。

 一方、土着性がなく、土地によって得られる人的資本(人脈)から切り離された後発の賃借人や分譲住宅取得者は、基本的にリア充ではない。

 彼らは、不動産を自力で賃借し、あるいは分譲住宅を購入せざるを得ないために、必然的に個人所得は高いものの、賃貸料やローン支払いに圧迫されて、常に将来不安を抱えている。

 これらの人々の中でも、特にリア充に憧憬の情を抱くものを『意識高い系』と呼ぶ。話を先に進める前に、まずここではリア充の輪郭を徹底的に追究していきたい。」

 

「とはいえ、ここで問題とするのは、親によって固定化される学歴という側面ではない。親の住む土地を相続する(提供される)ものと、そうではないもの(賃借人)の間に広がる、厳然とした人間コミュニティにおける格差である。

 これは『余剰資本』に似ている。余剰資本か一定程度溜まってくるとそれは外部への投資に向けられ、更に資本主義か発展する。発達した資本主義かさらなる余剰資本を生み、投資か投資を呼ぶ好循環となる。人間関係における余剰資本を持つ人々は進んだ先進国に等しいといえるが、それがない人間は資本主義の発展段階にも届かない後発の開発途上国、貧困を構造的に抜げられない最貧国に等しい。

 個人に言い換えれば、その余剰資本は『学力以外』の事象―つまり会話術や交際術、及びファッション・センスの洗練――など、まったく新しい分野への投資に振り向けられるのである。付属校での6・3・3の12年間ないし、中学からとしても6年間の蓄積の後、大学に進学した人間は、前提としてすでに余剰資本を有している段階から出発するのである。そしてその余剰資本を使って、様々な分野への『投資』が可能となる。

 大学への進学先がすでに内定している内部進学者は、受験競争失敗などによる浪人の危険性かほぼ存在せず、よってその有り余るエネルギーを汲々とした受験勉強などではなく、他者との会話術、異性交遊、コミュニケーション全般やファッションへの機微などに投資することかできるのである。青春時代の多感な数年間を、ひたすら『不合格』の恐怖と向き合いながら神経戦のように受験ですり減らしていく『一般学生』と、なんらその心配のない『内部進学生』の精神の余裕の格差たるや、明瞭となるのは当然である。これか精神の『余剰資本』を持つものと持たざる者との歴然たる格差である。そしてその余剰資本の格差は、結局のところその本人の親の不動産、つまり土地によって決定されるのである。それはまるで内部進学者はティーガー戦車で、『正面』から入学した人間は村田銃を持った民兵のようである。

『自由の新天地』と思われた大学の校内には、内部進学を既に果たした同級生がウヨウヨといる。ジモティ御用達のファミリーレストランよろしく、そこには既に土地を媒介とした人間関係、つまり悪く言えば閉鎖的で排他的だが、それでいて経験豊富な『人的資本』が蓄積されている層と、そうでない層の二者の間に越えがたい格差か最初から現出しているのである。

 内部進学を利用しないで正規の『門戸』からはいってくる私のような人間からすれば、大学空間は全員に均質なグレート・リセットの機会か与えられているものと錯覚しがちだが、しかし実際には大きく異なっているものだとだんだんと判明していく。大学に入った瞬間に、内部進学生にとってそれは高校時代の継続に過ぎないのだから、すでにそこには彼らの縄張りか強固に張り巡らされている。

 これらの既に形成されている内部進学者たちによる排他的な人的空間に分け入っていくのは極めて難しい。すべてにおいて平等で、自由で、『最初からやり直せる』空間だとばかり思い込んでいた大学はそこにおいても、『内部進学者』という一群の存在によりすでに階層化されていたのだ。そして内部進学者は、当然のことだがすでに述べたように親の資産によって付属校に進んでいるのだから、親の所有する『土地』を媒介とした支配階級の子息である。グレート・リセットどころか、内部進学者とそれ以外での余りにも歴然とした格差は、大学生活の中で深刻な問題となって表面化するのである。

『土地』という最大の拘束具をかなぐり捨てて自由の新天地についたとばかり思い込んでいた私が、大学入学後にすぐに直面したのがこの問題であった。私は非内部進学者だが推薦枠から入学した人間であったので、大学『正面』から入学したわけではない。

 しかし日本で最も北の政令指定都市にある公立高校から推薦で入学したという事実は、その出自の希少性という意味においてほとんど、他の『正面』入学者と変わらない人的リソースとコミュニケーション能力しか持ち得なかった。内部進学者は私たちよりも数百メートルはおろか、トラック何周分もアドバンテージを与えられて走るのだから、余剰資本のない私からするとたまったものではない。そういう厳然たる事実に、私は大学に入ってから初めて気づかされた。そしてその時には、もうすべて何もかもか手遅れだったのだ。」

 

「かつてこういう研究かあった。大量の餌を何不自由なく摂取させ、恵まれた環境を与えたマウスA群と、そこそこの餌を中途半端に与えたマウスB群、そして食料環境で劣るマウスC群の行動比較である。この中で、最も懸命に働き、懸命に行動するのは『そこそこ』『ほどほど』の環境を与えられたB群であり、A群は富裕すぎて現状に安寧して動こうとせず、逆にC群は行動の源泉か乏しすぎて栄養欠乏になりこれも動こうとはしなかった。これは動物行動学だけの話ではなく、人間にも如実に当てはまる。決して第一階級ではないが、『そこそこ』『ほどほど』の実力や環境を持った第二階級の中途半端な人間ほど、その野心に火をつけるのである。

 とりわけ後発に大都市部にやってきた『意識高い系』内でのマジョリティ『上洛組』とは、後発に大都市部に定住するだけの資産力や、それに見合った社会的地位と収入はあるが、元来自分が存在していた『土地』の中では決して支配階級を下剋上することもできないので、新天地・東京においては必死にリア充である事を『装う』人々なのである。」

 

「彼らは、すでに出生の段階で東京とその周辺に土着しているから、わざわざ進学や就職で土地を移動する必要がない。この国の有名私立大学のほとんどは東京圈と京阪神の2か所に集中しており、また大企業(上場企業)の実に50%近くが東京都に集中(49・2%)し、東京圈たる神奈川(5・0%)、埼玉(2・1%)、千葉(1・4%)を加えるとこの国の上場企業の実に57・7%が東京圈に集中しており、大阪か次いで14・7%となっている状況なのである(上場企業サーチ)。

 つまり、出生の段階ですでに東京圏に出自を持つ人間のうち、中途階級の人間は、土地の移動によってなしえるグレート・リセットを行う合理的必然性を(よほどの奇特者でない限り)持たないのである。これは生まれながらのアドバンテージといえるが、そういった意味では地方から『都』へ上京してくることによりスクールカーストの下剋上を実現しようという『上洛組』のような、ダイナミックな一発逆転は、当然望めない。

 では、上級の親族から東京圏の土地を受け継いだ地元民の中にあっては、どのような方法による『リア充成り』が可能だというのか。大学進学をするとて、その進学先の校舎・キャンパスの中には、すでに地元で天然的にスクールカーストの上位層にいたリア充たちが幅を利かせている。そこは彼らのねぐらでありアジトである。いくら人口稠密な東京とて、昭和の『君の名は』の時代ではないのだから、『古巣』のジモティ(リア充)と、彼らジモティであるのに中途階級の地位しか手に入れることかできなかった在地の人々が顔を合わさない、というほうか難しいことは自明であろう。

 そこで考案された方法は、『高度化』である。これはどういうことなのかというと、進学先でも正規のルートでの『リア充成り』、つまり下剋上をする道がふさがれている在地系の彼らは、大学の枠の中で、奇抜で、非主流の、大学外部にもその活動範囲を広げるような『高度な』領域にその活路を見出すのである。具体的には、高校時代のスクールカースト上位層がそのまま大学に進学した場合、必然継続される支配層の動態として選ばれがちなスポーツ系統のサークル(テニス、バドミントン、サッカー、ラクロス、ワンダーフォーゲルなど)ではなく、どちらかといえばマイナージャンルで、しかもその活動領域が大学内だけにとどまらず、首都圏の各大学を広域に跨ぎ、なおかつ場合によっては地域社会や企業とも接点を持つような『社会的な何か』を冠したサークルの中に活路を求めるのである。

 畢竟、同じジモティでありながら、スクールカーストの支配階級に所属していた人間は、そのまま大学へ進学しても社交の中心となる。ところか、中途階級は大学に進学してまでも支配階級の人間と顔を合わせることを忌避とするため、できるだけ彼らから遠い、マイナージャンルで、しかも大学外部と接点があるようなサークル活動にいそしむことによって、在地でありながら下剋上を目指す、という『在地下剋上』ともいうべき形態に進むのである(図表4)。

 これを『高度化』という理由は、例えば市井の街並みを見渡せばわかりやすいであろう。同じ土地、つまり人々の行きかう道路や歩道では、どうしたってジモティ(ここではリア充側の)と鉢合わせをしてしまう。その土地の中を移動せず、かつできるだけ彼らの影響力の範囲外で勇躍するためには、たった一つの方法しかない。それは建物を思いっきり高層化して、できるだけ地面から遠ざかることである。こうすれば、往来の人通りに遭遇することは減り、高層化された建物の中だけでの社交に埋没することかできるのである。

 そのためには、往来を行き来するジモティ兼スクールカーストの支配階級たるリア充とはまったく別の、できれば別次元で高度化された文脈の中にその活路を見出すのか自然である。よって、これまで大学におけるサークルの中では非主流とされてきた領域に彼らはこぞって進出する。それは非スポーツ系の、たとえば政治や言論や地域社会、なんでもよいか、高校時代からそのまま支配階級となった連中が大学生活の中で浸潤しない領域に高層ビルを打ち建てることにより、つまり高度化することによって、同じ土地にいながら『リア充成り』ができるという発想に立脚するのである。

 大学は自由放任の空間である。よって、人気のサークル、部活以外にも、マイナージャンルのそれはいくらでもあるし、ないのであれば同類を集めて自分で立ち上げればよいことである。

 この手の在地下剋上を目指す人々に人気の『在学中(学内)起業』というのも、この高度化の文脈のど真ん中に位置する。土地を移動することはできないか、その土地の中で高度化を図れば、その中で勇躍できるのである。

 その高度化のために使われる大義は、『若者』『政治』『起業』『マーケティング』など、いかにもマスメディアか好みそうな、えてして高度な『社会事象』や『社会』に紐づけられた中に包摂されるものでなければならないのだ。」

 

「うざい、痛々しい、不愉快、とだけ形容される『意識高い系』は漠然とした忌避や嘲笑の対象としてネット空間のみならず、いまやドラマなどのテレビ番組の中でも使われるほど単語として市民権を得た。政治運動をやっている人が、『私、よく意識高い系って言われるんですが……(苦笑)』と自虐する場面に出会うのは一度や二度ではない。しかし、『意識高い系』とは『系』であって、『意識か高い人』とは似て非なる存在であることもまた、指摘しなければならない。以後、『意識高い系』の心理をしっかりと分析することによって、さらに彼ら彼女らの心の歪みの輪郭をあぶりだしていきたい。」

 

「本章では、『意識高い系』の人々の具体例を検証・分析することで、『意識高い系』を更に明確にあぶり出し、実態を明らかにすることを目的としている。まず具体例検証の前に、いま一度、『意識高い系』の共通項を整理するとその特徴は以下の4つである。

 

①必ず抽象的で多幸的な概念(大義)に取りつかれており、具体的な方策や事実を述べない

②その実、その大義の下には承認欲求など、グロテスクで個人的で卑小な欲望を有している

③常に自己評価か高く、他者を見下す習性かある(逆説的な自信のなさ)

④スクールカーストにおける位置は、常に中途階級であった」