ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー著「最古の文字なのか?」

 東洋経済オンライン「人類は、一体いつから文字を使い始めたのか」(国立科学博物館・人類史研究グループ長:海部陽介著)、ダイヤモンドオンライン161116日号「氷河期の洞窟に残った謎の記号は現代に何を伝えていたか」を立て続けに目にし、この本を知りました。日本語の起源に大きな興味を持つ自分には願ってもない本です。

 

第二次世界大戦中暗号解読プロジェクトに関わっていた祖母を持つ、人類学専攻の大学4年生が、ヨーロッパの洞窟壁画のスライドを授業で見ていて、あることを閃きます。

 皆さんも同様と想像しますが、ラスコーやアルタミラ洞窟などの有名な壁画はご存知と思いますが、誰もが描かれている動物に関心が集中します。数万年前の、芸術までに昇華された絵に。

 ところが著者は違います。壁画に描かれた記号・図形に注目します。そしてパターンがあることを認識します(暗号解読者はパターン認識に長けています)。研究はそこからスタートします。

国立科学博物館「ラスコー展」、鶯谷「鍵屋」

 この本は、著者が博士論文を書きながら著したようです。

 ヨーロッパにある368個所の洞窟などに残された記号・図形の全てのデータベースを構築します。これまでに誰も行ったことがない作業です。そして、そのデータから、それらの記号・図形の殆どが32種類に収斂される、と言います(線、点、山形、楕円、手形、十字型、四角形、三角形、円など)。最大2400km離れ、数万年を経ているにも関わらず、この種類の少なさには驚かされます。一体何を意味するのでしょうか。

 この種類の少なさは、既に何らかの記号体系をもっていたに違いないことを示唆します。その謎を解く鍵は、太古の人類たちのコンテキストです。死者を悼むといった利他的なものだったのか、それとも自分の存在を誇示するための利己的なものであったのか。これらの事柄を丁寧に立証していきます。

 

 アフリカに起源を持つ現生人類が地球上に拡散していき、同じ年代に同じ現象が世界各地の遺跡から発掘されます。それにより、現生人類がいつ頃から言語(文字ではありません)を持つようになり、情報伝達手段を持つに至ったかを解明します。認知能力の高さが証明されます。

 アフリカから出た現世人類は、ヨーロッパ到着前に記号・図形の原型を獲得しています。しかも、その原型が現在のアフリカに住む狩猟採集民のそれと同じことが分かっています。

 

 著者が収集したヨーロッパの壁画に残された記号・図形は、4万800年前から1万年前までのものです。この年代が重要です。何故なら、現在最も古い文字とされるものは、中国で発見された9000年前の亀甲文字だからです。

 

 この本の題名「最古の文字なのか?」は大きな誤解を読者に与えてしまいます。確かにセンセーショナルではありますが、原題は「THE FIRST SIGNS」です。文字とは言っていません。ですから、これらの記号・図形が文字なのかどうかの謎解きに関心を持つ読者は、消化不良を起こすと思われます。尤も副題は「氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く」です。こちらの方は正確です。

 これら記号・図形は言語体系を持ちませんが、意味は持っています。所有(誰のものか)とか、暦とか、数とか(但し、解明、断定はされていません)。

 

 著者の博士論文は、本では17年夏に完成し、その後データベースを公開するとあります。しかし、検索しても見つかりません(英語でも検索したのですが)。この著書にある以上の事柄が、論文にあることを期待しています。

 

5万文字以上の引用になっていますが、興味深い知見が得られることと思います。

 

 

 

「私がそもそも氷河期のヨーロッパで描かれていた幾何学記号に興味をもったのも、パターンに目をとめたのがきっかけだ。人類学専攻の四年生だったとき、旧石器時代の芸術の講座をとった。毎週講義に出てヨーロッパの洞窟壁画のスライドを見ているうちに、あることに気がついた。写真には幾何学模様が写っていることが多いのに、そこに焦点が当てられていることは一度もなく、どれも動物画を主な題材にしているように見えたのだ。記号についてはまだ体系的な研究が行われていないという講師の言葉に、私はすっかり関心をかき立てられた。そのうち、同じ図形が多くの遺跡にくり返し現れることに気づき、ますます興味が募った。

 壁画に描かれた抽象的な記号が全部で何種類あるのか、同じ記号がヨーロッパ全体の多くの遺跡で見られるのかどうかを、私はどうしても知りたくなった。抽象記号は、約四万年前から一万年前までの後期旧石器時代を通して見られるのだろうか。ヨーロッパの壁画は一世紀以上前から研究の対象とされてきたから、いくら調査が進んでいないとはいえ、記号を専門に研究した人は誰かいるはずだと、私は思い込んでいた。ところがいざ謎めいた記号のことを調べようとしても、ほとんど情報が得られない。文献が見つからないのに困り果てて、指導教授に相談すると、思いもよらない答えが返ってきた。情報がないのは、これまで広範囲にわたる調査や、記号だけに焦点を絞った調査が一度も行われていないからだという。そんなわけで私は、この壮大な研究に乗り出すことにしたのだ。

 最初のプロジェクトでは、後期旧石器時代のフランスの岩絵遺跡に見られる幾何学記号に焦点を当てた。約四万年前から一万年前の後期旧石器時代は、現生人類が初めてアフリカを出て氷河期のヨーロッパに到達し、定住するようになった時代である。また世界最古の芸術品が現れるのも、この頃だ。私は一五〇を超えるフランスの岩絵遺跡で過去に収集されたデータをもとに、この時代に存在した抽象模様が、三角形、円、線、長方形、点などの限られた種類にとどまること、そして同じシンボルが時空を超えてくり返し描かれていることを、史上初めて示すことができた。私のにらんだ通りだった。こうした記号は、一部で考えられているように、ただのいたずら描きや飾りなどではなかった。一つひとつの記号の意味を解明するにはほど遠かったが、それらに意味があることは、パターンを見れば明らかだった。同じシンボルが多くの遺跡で注意深く再現されているうえ、時とともに人気が衰える記号や、新しく出回る記号があるなど、使用頻度の変化が見られた。ますます興味をそそられたが、謎の核心に迫るにはフランス以外の地域にも対象を広げ、同様のパターンが大陸全体で見られるかどうかを確かめる必要があった。

 人類史の太古の一幕を研究すればするほど、この時代の芸術と、それを生み出した精神に心を奪われた。芸術が見事なのはもちろんだが、私がそれを研究するのは美しいからというだけではない。現生人類は今から二〇万年前にアフリカの大地に現れた。彼らは私たちと同じ身体と同じ脳をもっていた。でも私が本当に知りたいのは、彼らが私たちになったのはいつか、ということだ。

 彼らが真に現代的行動をとり始めたのは、つまり人間の精神の創造性を十全に活用するようになったのはいつだろう? これを解明するのはとてつもなく難しい。というのも、彼らの精神を物理的に調べるわけにはいかないからだ。出土人骨からは、平均身長や健康状態(栄養不良や負傷、関節炎などの病気は、骨や歯に痕跡が残る)、脳の大きさなど、多くのことがわかっても、彼らが何を考えていたかを知るためのヒントは得られない。ここで手がかりになるのが、さまざまな形態の芸術だ。なぜなら芸術は、必要に迫られずに行う活動だからだ。芸術品は雨風をしのいだり、夜に暖をとったりするのにまるで役に立たない。動物を狩るのにも使えない。それなら、彼らはいったい何に駆り立てられて、芸術を生み出すようになったのだろう? 現代的思考の兆しがかすかに見え始めるのは、一二万年前のアフリカである。彫刻が施された骨や、赤いオーカー(赤鉄鉱)や首飾りが入れられた墓などが散見されるのはこの頃だ。一〇万年前以降になると、幾何学模様(線、格子形、山形など)が刻まれたポータブルアート(もち運びのできる芸術品)が現れ始める。ロックアート(岩壁画)の前触れとも考えられる、こうした抽象的なイメージは、時を経るごとに複雑さを増し、人類がアフリカを出て世界中に拡散し始めた五万年前になると、突如として岩壁画や小像、首飾り、複雑な埋葬、楽器が大量に出現し始めるのだ。

 こうした芸術的慣習のすべてが、一〇万年以上前に話し言葉が完成していたという通説を裏づけている。だが人間の最も特徴的な行動ともいえる、書き言葉についてはどうだろう? 私たちが現代社会でこれだけ記号を多用しているのだから、二万五〇〇〇年前や四万年前の人類が、同じことができなかったはずはないだろう? 人類が初めて図形を使って身元や所有権に関するメッセージを送ったり、さらに複雑な概念を伝えようと試みた痕跡が、こうしたシンボルを使う象徴的な行為に潜んではいないだろうか? 幾何学記号は、ほかのどんな種類のイメージよりも、私たちの遠い過去の謎を解き明かす手がかりになりそうだ。私の最初の研究は、答えよりも多くの疑問を生む結果に終わった。記号はヨーロッパで発明されたのか、それともさらに古い慣習から生まれたのだろうか? ヨーロッパ全体の遺跡に、同じ少数の記号が見られるだろうか? またそのことから、氷河期の人々やアイデアの移動について何かわかるだろう? そして最後に、幾何学記号は図形によるコミュニケーションの手段として用いられていたのか? もしそうなら、当時どんな言語が話されていたかを知り得ない私たちが、どうやってそれを証明できるだろう?

 この本は、これらの疑問に答える本だ(じらさないように一つだけ答えておくと、氷河期の三万年を通してヨーロッパ大陸全体で使われていた記号は、いくつかの外れ値を除けば、三二種類だけだった。これはとても少ない数だ)。でも、私はただ自分の研究を説明するだけでなく、あなたに伝えたいのだ。私はこんな研究をしているおかげで、普通ならけっして見ることのできない場所を訪れ、柤先たちの人間性の自覚が芽生え始めていたことを物語る、ものいわぬイメージと、暗闇のなかで語り合う機会を得ている。このすばらしい旅に、ぜひあなたをお連れしたい。」

 

「エル・ポルティージョのときと同じで、このときも不思議でならなかった。太古の人たちはいったい何に駆り立てられて、危険を冒しながら地下深くを進み、しるしをつけたのだろう。当時も通路は今と同じくらい狹かったが、それでも彼らは深い暗闇を果敢に進み、小さな赤い点を残したのだ.赤い点は、彼らにとって重要な意味があったはずだ。そこに、私はたまらなく魅了されるのだ。

 ディロンと私は、これまでヨーロッパ四カ国の七地域にまたがる五二ヵ所の岩絵遺跡で、壁に描かれ、刻まれた幾何学模様を記録してきた。四万八〇〇年前の世界最古の壁画のある洞窟から、こうした生活様式が一万年前に終わったことを物語る洞窟まで、さまざまな年代の洞窟を訪れた。どの洞窟でも、そこにあるもの、ないものを確かめることが、私の目的だった。

 こうして得た情報をもとに、ようやく問題の核心に、私のすべての研究の根底にある疑問に迫ることができる。すなわち、私たちが私たちになったのはいつだろう? 道具をつくる知性をもった柤先たちは、いったいいつの時点で最後の飛躍を遂げ、完全に現代的な精神をもつようになったのか? 私たちはそこからここまで、どのようにしてたどり着いたのだろう? 今では人類は周囲の世界にかつてないほど大きな影響をおよぼすようになっている。技術や医薬品を使って自然の災厄から身を守り、テクノロジーや数学、科学を用いて問題を解決し、あらゆる障害を克服してきた。これらのスキルを駆使して人類の歴史をひもとき、宇宙を旅してきた。そして、人類のすべての偉業の礎である言語と創造性は、記号を使って考え、意思疎通を図る能力のうえに成り立っている。言語と創造性がなければ、私たちがこれまで成し遂げたことは何一つとして可能ではなかった。本書は、この旅の始まりについての本なのだ。」

 

「最占の石器は素朴に見えるかもしれないが、認知能力の飛躍的向上と、まったく新しい知的能力の発達の産物だ。古人類学者がちっぽけな古い石のかたまりにあれほど大騒げするのには、こんな理由があるのだ。世界最古の石器は、二〇一五年五月にケニアで発見されたもので、三三〇万年前のものとされる。つまり、現生人類の祖先種であるホモ族の出現以前の石器であることから、興味深い可能性が広がる。それまで知られていた最占の石器は二六〇万年前のもので、現生人顎の直接の先祖であるホモ・ハビリスがつくったものと考えられている。ところが今回発見されたさらに古い石器は、後代のものに比べてやや素朴ではあるが、ルーシーのようなアウストラロピテクスが地上をさまよっていた頃につくられたものなのだ。二五〇万年前頃の石器は、初めてつくられたにしては、洗練されすぎているように見える。だがこの最新の発見のおかげで、手がかりをさらに遠い昔までたどり、このスキルが発達してきた経緯をよりよく理解できる.

 チンパンジーなどの人類以外の種も道具を使うことが知られているが、道具をつくる前に必要な知的活動という点で、人類とその他の種の道具はまったく異なる.人類以外の種による道具の使用は、偶然によるところが大きいようだ。たとえばチンパンジーがおやつを得るためにシロアリ塚を襲おうと思ったら、まずその辺で細い枝を探し、それをアリ塚に差し込んでシロアリを釣り、腹一杯食べたら枝は捨ててしまう。チンパンジーがあらかじめ計画して道具を使っていると考えられる唯一の例は、コートジボワールのタイ国立公園に住む群れに見られるものだ。この群れは毎年森の同じ場所に戻り、そこにある石板を台にして、近くで見つけた石のハンマーを打ちつけ、季節に採れる木の実を割って開けている。母ザルは子ザルにこの難しい作業のやり方を数年がかりで教え、次世代へと伝えていく。これに対し、どんなに単純なものであれ石器をつくるには、破壊力学を(科学だという認識がなくても)ある程度理解し、事前に計両を立て、先を読む力をもっていなくてはならない。道具づくりは多段階のプロセスで、必要な行動を事前に計画することが欠かせない。道具は時代とともに複雑になり、ますます込み入った製造手法を必要とするようになった。

 ここではものを切る簡単な道具をつくるための、基本的な手順を説明しよう。その一、叩けば刃先のようなかたちに砕ける、適当な石材を探す、その二、石鎚として使っても壊れないほど硬い、適当なかたちと大きさの別の石を探す。その三、実際につくり始める前に、できあがった石器のかたちを思い描き、石のどこを叩けば望ましい効果が得られるかを考える。その四、つくり始めたら、頭のなかに完成図をイメージしながら石を成型する。また石が思ったようなかたちに砕けない場合は、戦略を見直す。このように単純な手順を実行するだけでも、想像力と順を追って考える力が必要なのだ。

 また道具は摩耗するから、ときどきは交換しなくてはならない。道具を使うチンパンジーなどの種は、新たな作業が必要になるたび、使える道具をその場で探そうとするが、遠い柤先たちはちがう方法をとった。適切な石が必ず見つかるという保証がなかったため、アフリカを横断する際に石材を携行していたのだ。わざわざ石のかたまりをもっていこうとするからには、前もって計画する能力と、いまの石器が使えなくなる将来の状況を見越す能力をもち、前にそうした状況が生じたときのことを記憶していなくてはならない。」

 

「彼らがこんなことをしていた理由については諸説ある。ホモ・ハイデルベルゲンシスは現生人類よりほんのわずかだけ小さい、一一三〇グラムほどの脳をもっていた。彼らは捕食動物を呼び寄せないように遺体を処理しただけなのかもしれないが、ここは一般的なごみ捨て場のようには見えない。ホミニンの人骨に交ざって、切断痕のある獲物の骨や壊れた石器は発見されていない。そこにあったのは、遺跡を調査した考古学者に『エクスカリバー』〔アーサー王の聖剣〕と名づけられた、未使用の赤い握斧だけだ。遺跡が発見された一九八四年以降、穴からほかの道具は出土していない。

 これほど遠い昔の同一種の人骨が二八体見つかるだけでも、目を見張るような発見だ。通常発見されるのは一体の人骨の一部で、母集団全体を代表する多様な個体のほぼ完全な骨格や、ましてや同じ場所に意図的に置かれた人骨が見つかることなど、まず望めない。シマ・デ・ロス・ウエソスの研究者は、エクスカリバーが人類の象徴的行動を示す証拠ではないかと、発見当初から考えていた。珍しい色の希少な石材でつくられたこの原初的な道具が、死者とともに穴に入れられていたことで、それが新しい思考方式の芽生えを示している可能性がさらに高まると考えたのだ。

 初期の現生人類は(例は少ないがネアンデルタール人も)死者を副葬品とともに埋葬していた。このことから、特定の品が特定の人の『所有物』と考えられていたこと、つまり自意識が芽生えつつあったことが、少なくともうかがえる。自意識は、それ自体とても抽象的な概念だ。また副葬品を入れたのは、見えざる世界や死後の世界を信じていたことの表れとも考えられる。そうした世界で使用するために、道具や宝飾品、食物の供え物などを入れたのだろう。死後の世界という概念をもつには、想像力と、現在にとらわれず過去や未来を思い描く能力がなくてはならない(この能力は『メンタル・タイムトラべル』と呼ばれる)。

 シマ・デ・ロス・ウエソスに仲間の遺体を入れたホモ・ハイデルベルゲンシスに、この能力があったと考える人類学者もいる。この行為が同じ集団の仲間に対する共感の芽生えを表しているということには異論はないが、これを完全に象徴的なならわしと見るのは焦理があるだろう。ところがエクスカリバーが墓にあったために、そうとはいい切れなくなる。握斧が誤って穴に落ちたというのでもない限り、まだ道具として十分使え、珍しい色のために大切にされていたであろう特別な品が墓に入れられたことから、死者が死後もこの貴重な品をもち続けることを、集団内の誰かが望んでいたと考えられるのだ。」

 

「とくに紹介したい洞窟が、ピナクルポイント13Bと呼ばれているものだ。この洞窟に住んでいた人類は、一六万年前頃からオーカーのかけらを集めるようになった.ザンビアのツインリバーズ遺跡の初期人類がそうだったように、彼らはただオーカーのかけらを手当たり次第に拾っていたのではない。とても注意深く色を選び、鮮やかで濃い色相の赤をとくに好んだ。ときにはオーカーを熱して、求めている色の顔料をつくることもあった.オーカーを高温で一定時間熱すると色が変わることを、彼らは知っていた。黄色いオーカーは赤くなり、赤いオーカーは深みのある赤になることを、いつしか発見したのだ。当時はまだ化学を意味する言葉はなかっただろうが、彼らがやっていたのはまさにそれだった。土地にもともとあるものを使うだけでなく、必要に応じて周りの世界をつくり替えるようになったのだ。

 洞官13Bとその周辺からは、これまでに三〇〇片を超えるオー力―のかけらが見つかっていて、その多くに粉にするために削られた跡がある。日常的な用途に使われていた可能性もあるが、彼らが赤色を好んでいたことや、顔料を意図的に加熱して色を変えていたこと(天然の真っ赤なオーカーは近くではあまりとれなかった)を考えると、オーカーの粉に象徴的な目的があったと考えた方が自然だろう。もう一つの目覚ましい展開として、ピナクルポイントの住人は一〇万年前頃、深紅からこげ茶に近いものまでの、さまざまな色合いの赤色を使うようになった。色の選択が多様化したのは、身体装飾や儀式などの文化的活動のために、色を選んでいたからとも考えられる。オーカーの粉はボディペインティングや何らかの儀式のパフォーマンスに使われたのかもしれない。もしそうなら、彼らはとても現代的な行動をしていたことになる。

 そのほか、ふちに三本の刻み目のついた赤いオーカーのかけらと、片面に山形記号が一つ刻まれた小さな球状のオーカーが、一〇万年前の層から見つかった。この年代の幾何学模様の線刻は、ピナクルポイント以外でも発見されている。最近ではこのような古い年代の遺跡の発見が進み、初期の人類が身体だけでなく精神面でも現代的になった時期と場所に関する定説を見直さねばならなくなっているのだ。」

 

「人類史を通じて、あらゆる文化が独自の葬送儀礼を発達させてきた。人の生命や魂、精神が、死後もかたちを変えて残るという信念は根強く、埋葬の方法はそれぞれの文化の死後の世界観を映し出している。愛する人が行く死後の世界という概念は古くからあり、太古のさまざまな文化がこの世界への移行を記念するための複雑な儀式を執り行っていた。貴重品(金など)と実用品(食物の供え物など)を亡骸と一緒に墓に入れるのも、そうした儀式の一環だ。氷河期のヨーロッパの手の込んだ副葬品を伴う最古の埋葬例は三万年前頃のものだ。

 だがこの慣習をさらに昔にさかのぼれないだろうか? 象徴的埋葬は、文化の発達だけでなく、より一般的な認知能力の変化を反映している可能性がある。これより早い年代の墓はあまり見つかっていないが、現在知られている墓から興味深い手がかりが得られる。

 スフールの一三万年前から一〇万年前の地層で、大人七体と子ども三体の骨が発見された。ひどく荒らされた状態で見つかった骨もあったが(もとの埋葬場所から離れた場所に散らばり、一部の骨が失われていた)、残りは意図的に掘られた浅い墓に手つかずのまま入れられていた。そのうちの一つで、スフール五号と名づけられた成人男性の骨は、小さな楕円形の墓に胎児のような姿勢で葬られ、大きなイノシシの下顎骨を両腕で抱きかかえた状態で発見された。イノシシの骨が意図的に墓に含められていたことから、これは副葬品を伴う世界最古の埋葬と考えられている。

 洞窟からは、周辺の鉱物源から集められた四片の真っ赤なオーカーも見つかった。四片のうちの三片は、もとの黄色を赤色に変えるために摂氏三〇〇度以上で加熱されていた。

 つまりスフールの住人はこの土地を探鉱して、赤い顔料に変わる化学的性質をもつ黄色いオーカーを、わざわざ見つけ出したのだ。彼らが原料を厳選して収集していたことと、それを熱処理していたと考えられることから、スフールでのオーカーの収集には象徴的側面があったことはほぼまちがいなく、またそれはピナクルポイントの住人が三万年前にもっていたものと似た慣習だったのだろう。

 それだけではない。墓と同じ層から海の貝殻が二つ発見されたのだ。残念なことに、二〇世紀初頭に遺跡が発掘された際に、貝殻が墓のなかにあったのか、周辺で見つかっただけなのかははっきり記録されなかったが、これらが墓とほぼ同じ年代のものだということはわかっている。また当時スフール遺跡は海から三キロから一九キロほど(ヨーロッパと北米の氷床に閉じ込められていた水の量による)離れていたため、貝殻は意図的に洞窟に持ち込まれた可能性が高い。どちらの貝殻も、自然の作用ではまず穴があかない場所、それでいてひもを通すのに都合のよい場所に穴がある。つまり、穴があいているものが特別に選ばれたか、道具の先端を使って穴があけられたかだ。いずれにしても、これらの貝殻はひもを通され身につけられていたようだ。

 スフールの住民が副葬品とともに死者を埋葬していたことと、真っ赤なオーカーを好んだこと、それをつくるために顔料を熱処理していたように思われること、最古の装身具をつくっていたようであることを考え合わせると、彼らが現代人に匹敵する認知能力をもっていた可能性は高い。しかも彼らが生きていたのは、『創造の爆発』が起こったとされる時期より六万年以上も前なのだ。」

 

「ブロンボス洞窟は、南アフリカの西ケープ州の荒涼とした吹きさらしの丘の斜面にある。現生人類とともにオーカーが埋葬されていたピナクルポイントの澗窟から、ほんの八〇キロほどしか離れていない。洞窟の入口部分は手が届きそうなほど天井が低いが幅はかなり広く、一〇〇メートルほど先のインド洋が見わたせる。このエリアに初期の現生人類が一〇万年前から七万年前頃まで居住していた。当時の海水面は今より少し低かったため、洞窟はおそらく海岸線から八〇〇メートルほど離れていた。だがブロンボスの住人はこの距離をものともせずに、海洋資源を積極的に利用していた。遺跡には海洋と地上の生物の化石がたくさん残されている。

 ブロンボス洞窟は石灰岩の崖のなかにあり、奥壁のすぼまった浅い洞室が一つあるだけだ。円形の炉や、道具づくりが行われた場所がいくつかあることから、三万年の間に人々が入れ替わり立ち替わりここに暮らしていたことがわかる。洞窟の床は、二〇年ほど前までは砂丘から風で運ばれてくる砂で覆われていた。しかしいざ調査が始まると、この目立たない小さな遺跡は、初期人類の認知能力について私たちが理解していたことをすっかり覆してしまったのだ。

 人類が完全に現代的な認知能力をもつようになったと考えられていた時期は、一夜にして五万年以上前に書き換えられた。ブロンボス洞窟の調査を率いたクリス・ヘンシルウッドは、子ども時代、足元にどんな秘密が眠っているかも知らずに、家族の土地にあるこの澗窟を探検していたという。博士課程の学生としてアフリカの石器時代末期を研究していたとき、ふと思い立って洞窟を発掘し、奧壁の近くに埋まっていた太古の石器を発見した。だが博士論文の研究テーマはずっとあとの時代に焦点をあてていたため(彼が関心をもっていたのは六〇〇〇年前から五〇〇〇年前頃の遺跡だった)、彼は見つけた石器を埋め直し、より最近の遺跡の調査に集中した。博士課程を終えると、正式な調査のために戻ってきたが、当時はこの海沿いの洞窟がライフワークになるなど思ってもいなかった。だがそれ以降毎年のように驚くべき遺物が発見され、今ではブロンボスは、初期の人類が複雑な認知能力をもっていたことの『動かぬ証拠』と呼ばれている。

 つい最近発見された最古の遺物は、洞窟の床に残されていた一〇万年前の二つの『絵の具セット』だ。顔料を調合するための容器にはアワビの貝殻が使われ、赤いオーカーと、骨粉を加熱して抽出した骨髄油、炭の粉、石英粒、石片、そしてこれらを溶かすための水や尿などの液体を混ぜて、顔料がっくられた。貝殻の内側には水面の高さを示す『水位標』が何本かついていて、くり返し使われていたことがわかる。ペンシルウッドら考古学者のチームは、オーカーを砕くのに使われた石と、できあがった化合物をものや体などに塗るのに使われた赤く染まった細い骨を、貝殻のすぐそばで発見した。顔料をつくるここ必要な道具と材料を集めるには、高度な計画能力が必要だった・というのも、これらの材料は近くでは手に入らなかったからだ。オーカーの最も近い産地は、当時少なくとも二・四キロから四・ハキロは離れていたと考えられている。

 絵の具セットは、ほかの遺物が埋まっていた層からは見つかっていないため、長期居住者ではなく、短期滞在者のものだった可能性が高い。おそらく狩猟採集民の小集団が、オーカーの顔料をつくるのに必要なものを一式携えて澗窟にやってきて、一日か二日滞在したのだろう。彼らはここで骨を加熱して骨髄油を抽出し、もってきた砥石の上でオーカーをすりつぶし、『混ぜ棒』の骨を使って骨髄油とオーカーに炭やその他の材料を混ぜ、できあがった顔料をすくい出した。そして作業が終わると、絵の具セットと貝殻、材料をまとめて洞窟の床に置いておいた。

 顔料を調合してつくるには、化学の基礎知識が少なくとも必要だ。骨などの材料は、特殊な方法で加熱しなければ、求めているような結果が得られないからだ。その複雑な手順から、顔料の調合法はより幅広い文化の一環として標準化されていたとも考えられる。顔料が接着剤として使われていたのであれ、絵の具として使われていたのであれ、一〇万年前に生きた人たちが顔料をつくる手順を実行できたのは、驚くべきことだ。このことだけでも、彼らが完全に現代的だったことの強力な裏づけになる。

 こうしてつくられた顔料は、象徴的または儀式的な意味をもつものごとのために用いられていたと、多くの研究者が考えている。またブロンボスは抽象模様のついた芸術品が見つかった、最古の遺跡でもある。ここではさまざまな発見がなされているが、そのなかでもおそらく最も重要なものが、この芸術品だ。なぜなら芸術の創作はいろいろな意味で、すべての能力のなかで最も抽象的な能力だからだ。ブロンボスの模様が刻まれた遺物は、ピナクルポイントの線刻と山形記号のついたオーカーと、カフゼーの盃状穴と二本の平行線の刻まれた石とともに、一〇万年前の人類が現代人と同じ、完全に象徴的な精神をもっていたかどうかという謎に、一定の終止符を打ったのである。」

 

「ブロンボスの幾何学模様が刻まれた遺物からは、祖先たちが意図的で象徴的な慣習をもっていたことと、アイデンティティ意識が芽生え始めていたことがうかがえる。だがそれだけではない。北アフリカと近東の遺跡で発見された海の貝殻が、これらの地でごく初期に装身の慣習が生まれたことを示唆しているのに対し、ブロンボスの貝殻は、この慣習がアフリカ大陸の南の果てまで広がっていたことを示す初めての証拠なのだ。ブロンボスの祖先は貝殻にひもを通し、またほかの遺跡で見られるよりも多くの貝殻にひもを通していた。七万五〇〇〇年前の貝殻がこれまで四九個見つかっている。彼らが身につけていた貝殻は、北方の人類が身につけていたものと同じ属の、したがって同じ形状の巻き貝(ムシロガイ)だった。

 この巻き貝は河口域に生息するが、最終氷期にはブロンボスから最も近い河口までは一九キロ以上も離れていた。巻き貝は小さすぎて食用にはならなかったが、それでも人々は意図的にそれを集め、洞窟の場所までもち帰った。ブロンボスの貝殻の穴は道具を使って人工的にあけたもので、穴には摩耗の跡があり、オーカーの顔料が付着している。顔料は貝殻に直接塗布されたか、それを身につけていた人の体や衣服からはがれ落ちて貝殻についたのだろう。

 ブロンボスの住人が貝殻を身につけた理由も、模様を刻んだ理由と同じで、純粋に見た目を好んだからかもしれない。でもたとえそうだったとしても、彼らの好みは何らかの文化の影響を受けていたはずだ。なぜなら彼らはみな同じ種類の貝殻を好ましいと感じ、それを集めるためなら遠出も厭わなかったからだ。これまでブロンボスからはどこよりも多くの貝殻が出土しているが、それでも四九個では、部族全体か身を飾るには到底間に合わない。つまりこれを身につけていたのは、特定の人たちだったのだろう。今後同じ年代の貝殻のビーズが入った墓が発見されれば(ブロンボス周辺では今日に至るまで一つも見つかっていない)、貝殻が日常的に身につけられていたのか、特別な機会のものだったのか、また特定の身分や年齢、性別の人だけのものだったのかがわかるかもしれない。

 もし貝殻を身につけていたのが部族内の限られた人だけだったのなら、貝殻には特定の人たち(シャーマン、部族長など)をほかと区別し、その身分を共同体に知らせるはたらきがあったのかもしれない。また部族や共同体の内外に、特定の文化集団の一員であることを知らせていたとも考えられる。現代の私たちも装身具を通して、自分の社会的状況に関するさまざまなメッセージを伝えている。指輪一つはめるだけで、『私は結婚しています』『友愛会に所属しています』『大学を卒業しました』『スーパーボウルで優勝しました』といったメッセージを、ひと言も発さずに伝えられる。装身具が装飾品や象徴として成立するには、情報の重要性を伝える何らかの合意された意味体系をもとにメッセージを読み解く方法を、人々が知っていなくてはならない。装身具は、シンボルを用いた強力なコミュニケーションの手法になり得る。そしてこれから見ていくように、この種のシンボル体系は、装身具に限らない。」

 

「西ケープ州ケープタウンの北にあるディープクルーフ岩陰遺跡からは、この年代には類を見ない象徴的な品が出土している。アフリカと旧世界全体で、岩陰は先史時代を通じて定住用の生活拠点になっていたほか、一時的な宿泊の場や季節限定の野営地としても利用されていた。岩陰は張り出した岩盤で風雨をしのぐここができ、開口部が広く通気性と見通しがよいため、太古の昔から住居に用いられてきた。

 ディープクルーフ岩陰はとくに美しい遺跡だ。赤い縞模様の砂岩が風食されてできたこの岩陰は、辺りを見下ろすビュート〔孤立した絶壁の山〕の平らな頂上にある。丘は起伏の多い広々とした田園地帯にそびえ、ふもとを流れる川はよい水源と食料源になっている。石器時代の一〇万年以上にわたって、人々はここに暮らし、日常生活の痕跡をたくさん残していった。石器や動物の骨、炉、そしてこの遺跡に特有のものとして、ダチョウの卵殻が大量に出土している。ここに暮らした人たちはダチョウの巨大な卵を主なタンパク源とし、食べたあとの殻を水入れにして、丘のふもとの川から水を運ぶのに使っていたようだ。だが卵殻の水入れの外面からは、さらに興味深いことがわかっている。

 ディープクルーフの八万五〇〇〇年前から五万二OOO年前の地層で、模様が彫られたダチョウの卵殻の破片が発見された(図9)。ブロンボスの線刻には、一、二本の線しか刻まれていないオーカーのかけらなど、単純すぎて意図的につけられたものかどうか判断に迷うものもある。だがディープクルーフの卵殻の幾何学模様は、どう見ても意図的につけられたことはまちがいない、抽象的なモチーフ(線の束、格子、扇形など)が彫られたダチョウの卵殻のかけらが、これまで四〇〇片以上出土している。この発見がとくに異例なのは、たった五種類のデザインとわずかなバリエーションが、三万年以上の間使われ続けていた点だ。これだけ長期にわたって、ほとんど同じパターンが再現されていることから、

模様は意図的に標準化されていたように思われる。このことはとりもなおさず、ディープクルーフの住人が、世代を超えて模様を伝えていたことを示している。ディープクルーフの調査責任者ピエール=ツジャン・テクシエは、このことを現代的精神の存在を示す明確なシグナルと見なしている。

 ディープクルーフの線刻は、現在知られている図形を用いる慣習のうちの最古のものだ。ブロンボスの貝殻のビーズが、着用者に関する情報を伝えていたように、ディープクルーフの線刻模様もメッセージを伝えていた。テクシエ博士らは、これらのパターンが、ほかの人々や集団に伝えるための社会的情報を記号化したものであり、また文化的一体感を促すのにも役立っていたかもしれないと考える。つまりこれらの幾何学的デザインは、シンボルを認識し、かつ操作することのできる文化の一部だったということになる。それぞれの模様の使用頻度は時とともに変化したが、既存のパターンを意識的に模倣しようとする姿勢は終始変わらなかった。このことから、卵殻の幾何学模様が人々にとって意味のあるものだったことがわかる。

 ブロンボスのオーカーの模様と同様、卵殻の模様は機能的役割と象徴的役割を兼ねていたのだろう.テクシエ博士らは、今もアフリカ南部の人々がダチョウの卵殻の水入れに線刻のしるしをつけていることをもとに、太古のモチーフが水入れの所有者を示すしるしとしてつけられ、家族などの血縁集団によって、同じ模様が長い間用いられていたのではないかと考えている。同じ模様が多くの卵殻に長期にわたって再現されていたことから、太古の人々が個人としての所有者意識と、集団への帰属意識をもつようになったことがうかがえる。先史時代の遺物を解釈する際に最近の狩猟採集民の慣習を参照するにあたっては、慎重を期す必要があるが、この地域の住人は今もダチョウの卵殻を水入れとして使い、自分のものであることを示すために独自の幾何学模様を彫っているのだ。

 ディープクルーフのダチョウの卵殻は、オーカー、骨、石以外のものが象徴的な目的のために用いられた最古の例だ。氷河期ヨーロッパでも、柤先たちは幅広い素材を『キャンバス』にして芸術品をつくっていた。また卵殻に彫られた模様の複雑さも目を引く。つまり、ディープクルーフの彫刻細工から、のちのヨーロッパの洞窟に見られる幾何学記号までは、そう大きな飛躍ではないのだ。」

 

「ここで現代人的な認知・行動能力の基準をおさらいしよう。その基準とは、次の活動の大半またはすべての行動に携わっていることをいう。すなわち、(一)何らかの象徴的な意図をもった顔料の使用、(二)装身具の装着、(三)副葬品を伴う埋葬(副葬品がそばに埋まっていれば、捕食動物を寄せつけないだけのために遺体が埋められた可能性が低くなるため)、(四)幾何学的または偶像的表現の創造だ。一つひとつ見ていこう。(一)色彩選好と顔料の調合の証拠は、現生人類やおそらくその祖先のホモ・ハイデルベルゲンシスにまでさかのぼる、単なるオーカーの収集だけでなく、広範な遺跡に見られる。(二)人類は一〇万年前から七万五〇〇〇年前までの間に、海の貝殻に穴をあけてつくった装身具を身につけ始めた。貝殻を身につけるために、わざわざ石器を使って加工したのだ。同じ種類の貝殻が複数の遺跡に見られることから、この慣習に象徴的側面があったことが見てとれる。(三)イスラエルの一三万年前から一〇万年前頃までの埋葬は、副葬品を伴うものは少ないが、二重埋葬といった別の指標から、おそらくは現代的知性をもつ人類による埋葬と考えられる。(四)ブロンボスやディープクルーフなどの遺跡で、芸術制作の証拠である幾何学模様のついた遺物が多量に見つかった。したがって、リストの基準はすべて満たされたことになり、アフリカの祖先たちを完全に現代的な存在と見てまちがいないだろう。

 ブロンボスとディープクルーフ遺跡での発見以降、周辺のほかの遺跡からも似たような模様がついた同じ年代の遺物が見つかっている(新たに発見された遺跡もあれば、研究者が意図的な模様を探し始める前に発見された遺跡が再訪されたケースもある)。たとえばナミビアのスワコプ渓谷で出土した、格子の模様のある小石や、南アフリカのクラシーズ川河口の平行線が刻まれた骨器類などだ。したがってポータブルアートに幾何学模様をつける慣習は、一つの遺跡や個人だけにしか見られない例外的事象ではなく、多くの集団によって広く慣習として行われていた。またそれはおそらく象徴的な慣習だったのだろう。

 このような慣習をもつには、完全に統語的な言語を操る能力をすでに備えている必要があった。いいかえれば、彼らは現代人と同じくらい表現豊かな言語をもち、完全な文章で話していたということだ。もちろん、今日名前がついている事象の多くはまだ生み出されてもいなかったから、私たちと同じ語彙をもっていたはずはない。だがブロンボス遺跡のクリス・ヘンシルウッドとフランチェスコ・デリコや、ディープクルーフ遺跡のピエール=ジャン・テクシエをはじめ、この時代の最古の象徴的遺物を研究する多くの古人類学者が、初期の人類は身の周りの世界についてあまねく議論することができたと考えている。そうでなければ、このような抽象概念を含む情報を共有できたはずがないからだ。

 言語はいろいろな意味で、完全に現代的な存在であることの究極の証だ。言語の複雑な機能を考えれば、完全な言語能力をもつ人類は、身体だけでなく精神においても、現代人に匹敵する能力をもっていた可能性がきわめて高い。話し言葉は痕跡がまったく残らないため、古人類学者はコミュニケーションがなければ遂行できない活動や慣習が行われていたという証拠を見つけようとする。ここでとりあげた遺物の多くに象徴的な意味があると考えられるため、遠い祖先はアフリカを出て旧世界全体に拡散するはるか前に、現代的な認知能力の『ツールキット』をすでに備えていたと考えられるのだ。

 アフリカで幾何学模様を刻んでいたホモ・サピエンスは、どのような過程を経たのかは謎だが、ヨーロッパ到達後まもなくフランスのショーヴェ洞窟などで岩絵遺跡を描くようになった。三万七〇〇〇年も前の遺跡の芸術家が、あのすばらしい動物の壁画を描くことができたのだ(ヴェルナー・ヘルツォークの映画『世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶』でも紹介されている)。私にとってさらに興味深いのは、ショーヴェの住人がすでに一七種類もの幾何学記号を使っていたことだ。一七種類といえば、後期旧石器時代に使われていた全記号の半数近くにあたる。これは始まったばかりの慣習にはとても思えない。むしろ、それ以前に生まれたスキルが受け継がれ、磨かれていたように思われる。実際、ヨーロッパ最古の壁画より、ブロンボスやディープクルーフといった遺跡の幾何学模様の方が、図形描写の初めての試みに近いように感じられる。

 ブロンボスからショーヴェに至るまでの中間段階の遺物は、とくに獣皮や木のような傷みやすい素材に描かれた場合、永遠に失われてしまった可能性がある。祖先たちがアフリカで抽象的表現を初めて試みてから、ヨーロッパなどで巧みな洞窟壁画を描くようになるまでの過程を知る手がかりとなる象徴的な品が残された遺跡は、今のところ見つかっていない。だがアフリカから近東を通って、バルカン半島と中央アジアに至るルート上にある太古(六万年前から四万年前まで)の岩絵移籍が、発見されるのを待っているか、年代が正しく測定されていない可能性は十分ある。西ヨーロッパでは過去一世紀以上にわたって集中的に調査が行われてきたが、その他の多くの地域ではまだとりくみが始まったばかりで、今後の調査、研究が待たれる。」

 

「人類がいつどのようにしてアフリカを出たかについては、年代測定技術の向上と遺伝子解析のおかげで、ここ数年間でかなり多くのことがわかっている。簡単に説明すると、出アフリカの第一波が始まったのは約六万年前で、このルートが開かれたのは主に近東の環境条件が変化したためだった。柤先たちの一部(私の祖先もだ)が東地中海のレヴァント地方に住むネアンデルタール人と交配したのがこの頃だということが、ゲノム研究からわかっている。最近になって約七万五〇〇〇年前のインドの遺跡で石器が発見されたことにより、それより早くアフリカを出た、度胸のある冒険者たちがいたことが判明したが、考古学とDNA解析により、大規模な出アフリカが始まったのはその一万五〇〇〇年あとのことと考えられている。

 アフリカを出た集団は、どこか特定の場所を目指していたわけではなく、旧世界に徐々に進出していった。狩猟採集を行いながら二〇人から五〇人ほどの集団で暮らし、各集団は生活を維持するために二六〇平方キロほどの土地を必要とした。人数が増えすぎて生活を維持できなくなると、集団は分割され、占有されていない新しい土地に進出するものも出てきた。単によい食料源を求めて移動し、それが枯渇すればまた移動をくり返す集団もあった。こうした行き当たりばったりの方法で、人類はヨーロッパ、アジア、オーストラレーシア〔オーストラリア大陸とその周辺の島々〕に拡散していった。

 近東に到達し、そこに定住した集団もあれば、そこから東に向きを変えてインドやアジアの海岸沿いを進んだ集団、少数だがオーストラリアに舟で向かった集団もあった。多くの場合、彼らは大変な速さで各地に散らばっていった。オーストラリア南東部の乾燥地帯にあるマンゴ湖の先史時代の遺跡周辺で、四万年以上前に象徴的埋葬が行われていたことから、アフリカからの最初の出発はかなり早かったと考えられる。また最近ではインドネシアのスラウェシ島で、約四万年前の壁画が発見された。つまりこの壁両は。ヨーロッパ最古の壁画と同じ頃に描かれたことになる! またこのことは、現生人類がこれほど早い時期にオーストラレーシア全体に広く拡散していたことを裏づけている。

 考古学と遺伝学を組み合わせた手法により、黒海の北を回って中央アジアに入るいくつかのルートがマッピッグされ、シベリアと北アジアへの定住が、初期人類が西へ向かいヨーロッパ令体に拡散するより前に始まった可能性が明らかになった。シベリアで発見された四万五〇〇〇年前の男性の骨のゲノム分析により、柤先たちがこの頃すでにシベリア東部に定住していたことがわかっている。その後ほどなくして、小集団が大陸の西方へ徐々に移動し始めた。初期の人類は、これまで考えられてきたようにアフリカから直接ヨーロッパにわたったのではなく、より眺めのいい道をたどったように思われる。」

 

「人間の小像についてよくある誤解として、すべて裸体だというものもある。だが実は服飾品を示す模様が彫られているものはかなり多い。たとえば頭飾りやベルト、スカートなどで、東ヨーロッパとロシアで出土した小像には、服飾品をつけたり、フードつきの服などの防寒着を着ているように見えるものもある(図17)。小像がつくられた目的はいまも謎だが、こうした像は氷河期にどんな衣服が着用されていたのか、ヨーロッパに到達した人類がどれほど巧みに衣服をつくっていたかを知る有用な手がかりになる。

 実際、衣服は環境が技術や文化におよぼす影響をよく表すものだ、当時のアフリカにもさまざまな環境があったとはいえ、初めてアフリカを出て北に移り住んだ人たちが、氷河期の厳寒の環境への心構えができていたはずがない。彼らは体を守るために、または文化的な理由から、ヨーロッパ到達前にすでに衣服を身にまとっていたかもしれないが、防寒が生死を分けるという危機意識はなかったはずだ。

 また彼らはヨーロッパにやってくる前から履きものを履いていたかもしれないが、靴や長靴を日常的に履くことによって生じる足の変形が認められるのは、ヨーロッパ到達後のことだ。このことは、旧石器時代の床が保全された(つまり現代の考古学者が、床を踏み荒らして氷河期の活動の痕跡を損なわないよう気をつけている)洞窟の足跡から確認されている。氷河期に床がぬかるんでいた遺跡には、中に入った人たちの足跡が残っていることがある。そのような足跡は裸足ではなく、底の柔らかい靴の跡なのだ。

 人類はヨーロッパに到達したとき、すでに履き物を履いていただけでなく、骨針を発明し、それを使って丈夫で寒さに強い服を縫っていた。動物の靭帯や腸線を糸にすることもあったが、ジョージア(旧称グルジア〕のカフカス山脈のふもとにあるジュジュアナ洞窟では、亜麻繊維で紡いだ糸が発見されている。この洞窟はとても乾燥しているおかげで、加工された亜麻繊維のかけらが八〇〇片以上も残っていて、最古のものは三万六〇〇〇年前頃のものとされる。この発見を知って私が心躍ったのは、太古の人たちが、ただ亜麻を紡いで使っていただけではなかったからだ。彼らは繊維を黒、灰色、ターコイズ(青緑色)、ピンクなど、さまざまな色に染めていた。こうして加工した糸を使ってひもをつくったり、衣服を縫い合わせていたと考えられている。私はこれを知って、遠い柤先たちがスタイリッシュなピンクとターコイズの新しいウインターコレクションを身にまとい、ツンドラをそぞろ歩く姿を思わず想像してしまった。)

 

「東ヨーロッパにはカフカス山中のこの洞窟以外にも、一般にあとの時代のものと考えられている発明品が、驚くほど早い時代に使われていたことを示す遺跡がある。チェコ共和国モラヴィアの隣接する二つの遺跡、パヴロフとドルニ・ヴィエストニッツェは、いろいろな意味でヨーロッパのブロンボスとも呼ぶべき遺跡だ。これらの遺跡は緩やかなパヴロフの丘の上の、三キロと離れていない場所にあり、入口の前には小川が流れ、丘を九〇メートルほど下ったところにディイェ川がある。ここには約三万年前から二万五〇〇〇年前までの間、マンモス狩りの高度な技術をもつ大規模なハンター集団が、入れ替わり立ち替わり暮らしていた。当時パヴロフとドルニ・ヴィエストニッツェの遺跡は、そびえ立つ氷床の先端部からわずか数キロの場所にあり、人が移動できる北限に近かった。夏には氷河から流れ出る水の周りに繁茂する草や苔を求めて、トナカイやマンモスの大群が集まり、人々はそれをめあてにこの地にやってきた。集落の周辺には、今日の北極圏の広々としたツンドラ地帯を思わせる風景が広かっていた。人々は樹木限界に近いこの場所で、起伏の多いステップ草原を見わたしたことだろう。まっすぐに伸びる地平線をさえぎるのは、点在する藪やトウヒ、松の低木だけ。これほど北では木は希少で、薪の代わりに乾燥させた骨が使われていた。

 傷みやすい木材が広く用いられていたヨーロッパの他地域とちかって、ここでは骨が主な建築資材だったため、住居や集落の跡が今も残っている。ほかの地域では人々は動物の群れを追って、野営地から別の野営地へと移動をくり返した。だがここモラヴィアで人々は定住を始め、新しい生活様式を生み出した。ドルニ・ヴィエストニッツェとパヴロフは、人類最古の定住地だ。夏の狩猟集落として一年のうちの数カ月間だけ住まわれ、冬の住居は南にあったのだろうが、住居の規模と耐久性から考えて、おそらく一年を通して長期間定住していた人たちも一定数いたと思われる、これらの村の遺跡では、一般に農耕の開始によって起こったと考えられている多くの変化が、それより二万年も早く見られるのだ。

 ドルニ・ヴィエストニッツェのような旧石器時代の村に暮らす人たちが、川から丘を登って集落に帰るとき最初に見えたものは、一エーカー(約一二〇〇坪)を超える集落の一部を囲っていた、マンモスの骨や枝、土でできた塀だったろう。なにしろ数百頭分ものマンモスの骨が積まれていたのだ、集落の中心の巨大なたき火台には、骨置き場からとってきた燃料がくべられ、火が絶やさず燃やされていた。四、五軒あった大きな共同住居には一五人から二五人ずつの人が住んでいたこともあり、ドルニ・ヴィエストニッツェ全体の人口は八〇人から一〇〇人程度だったようだ。

 住居は楕円形で、一番大きいものが縦一五メートル、横六メートルほど。床を平らにするために地面を削ったため、半地下だった。木の柱を地面に打ち込んで岩で固定し、中央に立てた柱に向けて傾けた。獣皮を伸ばして縫い合わせたものを柱にとりつけて壁にし、大きな岩やマンモスの骨で地面に固定していたようだ。どの住居にも複数の炉があり、最も大きな住居には中央に五つの炉が並んでいた。調理や道具づくりなどは、すべて屋内の炉辺と屋外のたき火の周りで行われた。またパヴロフ遺跡でもドルニ・ヴィエストニッツェと同じ方式で住居がっくられていたことが発掘調査によりわかっている。居住の時期は異なるが、同じタイプの住居が一一戸発見されている。もし私が氷河期のヨーロッパに生まれていたら、住んでみたいのは断然この地域だ。

 ドルニ・ヴィエストニッツェの炉端からは、鳥の骨でできたフルートも発掘された。ほかにフルートが出土しているフランスとドイツから遠く東に離れたこの地でそれが見つかったことに、私は感動を覚える。なぜなら氷河期の人々の間で音楽が慣習として広まっていたことがわかるからだ。そのうえフルートの内部には、樹脂製のブロックが完全な状態で残っていた。フルートが音を発するには、空気の振動を発生させる構造がなかになくてはならない。ブロックの素材が残っていたのは、世界でもここだけだ。この発見のおかげで、音楽の進化の研究において、人類が楽器を生み出した過程に関する理解が進んだ。」

 

「定住集団の規模が大きくなると、分業化が進むことが多い。集団の維持に必要な作業を大人数で行えるから、重要な特殊技能をもつ人には補助がつき、日常生活に関わる活動を免除される。ドルニ・ヴィエストニッツェでもこれが見られた。部族のなかに、土器のつくり方を知っている人が一人または複数いた。土器といっても、川の近くの泥をこねて日光で乾かしてつくるようなものではない。窯で焼いた土器をつくっていたのだ。

 定住と同様、土器の製作と使用も、農耕の開始によって穀物や作物の収穫が増えて貯蔵の必要が生じたために始まったと、一般に考えられている。だが中国と日本の太古の土器には、農耕が定着するはるか前の二万年前から一万八〇〇〇年前につくられたものがあることが、最近の研究で明らかになっている。人類がこれほど昔に土器を使って何をしていたのかを解明するために、日本で研究を行う国際的な研究チームが約一万五〇〇〇年前の縄文式土器の焦げ跡を分析したところ、魚介類を調理するのに使われていたことがわかった。これはごくあたりまえのことなのかもしれないが、それでも太古の人々がすでに現代的な方法で料理をしていたことには驚いてしまう。過酷なまでに寒い時期もあったが、彼らの生活はこれまで考えられていたほどつらくも野蛮でもなく、寿命も短くなかったのではないだろうか。彼らは大きく発達した脳を使って、暮らしを楽に快適にするためのさまざまな方法を考案していたのだから。

 ドルニ・ヴィエストニッツェでつくられていたのは、ものを入れるための土器ではない。窯で焼かれていたのは、粘土製の数百体の小像や玉だった。ドルニ・ヴィニストニッツェの土器工房は、居住エリアから九十メートルほどの場手にある独立した離れで、丘に半分埋め込まれ、奧壁は土から直接切り出されていた。低い壁には石と泥、粘土が使われ、安定した土台にくい穴が直接打ち込まれた跡があり、屋根と前壁兼扉は獣皮でできていたようだ。工房の大きさは直径約六メートルで、作業場と住まいを兼ねていたと考えられている。奥には洗練された窯があった。上と粘土を成形して固めたもので、現代の窯と同じようにほぼ完全に密閉され、摂氏五、六〇〇度以上まで出すことができた。

 土器職人はたぶん試行錯誤の末に、より耐久性の高い小像をつくる方法を編み出したのだろう。その秘訣とは、粘土に骨粉を混ぜて熱が均質に伝わるようにすることだった。また骨粉を混ぜると、土器に自然な光沢が出る場合がある。この遺跡から出土した、あのつややかな『ドルニ・ヴィエストニッツェの黒いヴィーナス』などが表面を磨いたように見えるのは、そのためだ。だがここで焼かれた小像の多くは、高熱を加えられたせいでひびが入り、粉々に割れたり爆発した小像のかけらが窯の周りの床から大量に見つかっているほか、成形の際に小像からつまみとられた粘土のかけら(その多くに指紋がついている)が無数に発見されている。ただし小像が壊れたのが技術不足のせいなのか、(たとえば儀式的殺人として)壊すためにつくられたのかについては、研究者の意見は分かれたままだ。遺跡のほかのエリアからは無傷の(または地層に埋まったあとで壊れた)小像が見つかっている。ほかの遺跡と同様、ここにも人間だけでなく動物の小像も見られ、これまでマンモス、クマ、キツネ、ライオン、ウマ、ケブカサイの像が特定されている。

 パヴロフをはじめ、周辺の複数の遺跡で、完全な像と壊れた像の両方が見つかっている。これらのすべてが同じ窯でつくられたのかもしれないし、まだ発見されていないほかの窯があるのかもしれない。いずれにせよ、この技術は地域文化の重要な一部になり、技術をもつ人は集団内の特別な地位を占めるようになったと考えられる。最近になって、遠く離れたクロアチアのヴェラ・スピラ洞窟で、一万七五〇〇年前の小像が三六体発見された。のちの年代の、しかも遠い地域での発見により、この慣習がチェコの遺跡以降も、時間と空間を超えて続いていたことが初めて示された。

 ドルニ・ヴィエストニッツェとパヴロフからは、粘土の小像以外にも、象牙や骨、石でつくられた、より典型的な像も多数見つかっている。つまり粘土の像は、既存の象徴的な芸術品に新しく加わった種類の一つで、前者が後者の文化にとって代わったわけではなかった。ここでも、初期の人類が生存に不可欠でないものにこれほどの労力や熟考、創造性を費やしていたことを思うと、胸躍るものがある。」

 

「三万三〇〇〇年前頃に、何かが変わった。それまではまったく墓が発見されていないのが、この頃を境に突如ユーラシア大陸全体の遺跡であたりまえのように見られるようになる。これら最古の墓は数百キロから数千キロ離れているものもあるが、多くの共通点がある。旧石器時代の死と埋葬を研究している古人類学者のポール・ベティットは、『この時代の埋葬の慣習が、広く共有された信仰体系に裏打ちされていた』ことが、こうしたパターンによって立証されたと考える。このことは、ある共有された文化的慣習が大陸の大部分に存在したことを示唆しているかもしれない。またその慣習は、当時存在した広大な交易ネットワークを通じて伝播したのかもしれない。これまで発見された墓のほぼすべてに、赤いオーカーの痕跡がある。体に振りかけられたように見える場合もあれば、体や衣服に生前または死後に塗布されたように見える場合もある。石器が一緒に埋葬されていることが多く、食物の供え物のようなものが含められていることもある。そしてかなりの割合の墓に、装身具が入れられている。ネックレスなどの宝石のほか、衣服に直接縫いつけられたように見える装飾品も多い。両者の違いは、一般に墓のなかのどの位置にあるかで判断できる。装飾品には穴のあけられた貝殻や歯、また象牙や骨、石でできたビーズのほか、彫刻を施された琥珀などの変わったものもある。

 副葬品は、最初期はほとんどが単純なものだったが、時を置かずに複雑になっていった。ドルニ・ヴイエストニッツェとパヴロフにはヨーロッパ最古の墓があり、一般的な副葬品以外に、それほど手が込んでいるわけではないが、珍しい特徴が見られるものもある。赤いオーカーがとくに頭と骨盤の周りに重点的に振りかけられた墓もあれば、石器、キツネやオオカミの歯、象牙のビーズ、それに海の貝殻さえ入れられたものもある。さらに珍しい副葬品として、体の上に置かれたマンモスの肩甲骨や、特殊な骨器、動物をかたどった土器などがある。墓がまだ開いているうちに木の構造物を上に建て、その後埋葬を行った例も二例ある。

 ドルニ・ヴィエストニッツェには、三人の若者が同時に埋葬された、とても珍しい墓がある。一人の女性の両脇に、二人の男性が横たわったものだ。この配置は死にまつわる物語を伝えているのかもしれない。DNA解析はまだ試みられていないが、三人は前頭洞(前頭骨にある空洞)の欠損や、上の親知らずの埋伏といった珍しい解剖学的特徴を共有していることから、血縁関係があったのではないかと考えられている。

 埋葬に関していえば、男性の一人は女性に寄り添い、彼女の陰部に手を当てていて、もう一人の男性は二人から顏を背けるようにうつぶせになっているが、女性と腕を絡めている。赤いオーカーが墓全体にかけられ、とくに三人の頭と女性の陰部に集中的にまぶされている。仰向けの男性は、オーカーを塗布した仮面を被っていたのかもしれない。女性は装身具はつけていないが、一つの石器と数個の石とともに埋められ、二人の男性はキツネとオオカミの歯でできた簡素な頭飾りと、象牙のビーズを身につけている。女性は変形頭骨や脊柱の湾曲、その他の骨の変形など、発達上の異常を抱えていたと考えられている。男性の一人は腰に木製の槍か杭を打ち込まれ、もう一人は頭に一撃を受けて死亡したようだ。氷河期のヨーロッパには、人間同士の暴力の痕跡はほとんど見られないため、同じ頃に暴力死を遂げたように思われる二人の男性が一つの墓に入っているせいで、この一族に関する謎は深まるばかりだ。」

 

「赤という色には、なんともいえない魅力がある。赤は喜び、怒り、幸運、危険、血、太陽、生命、死などを表すのに使われる。世界中の多くの文化で、赤には特別な意味が込められている。赤が重視されていることは、現代の多くの言語にも表れている。言語のなかには多くの色を表す語彙をもたないものもあり、最も単純な言語体系では白と黒、つまり明と暗だけしか認識されない。だが三つめの色の語彙が加わるとき、それは必ず赤なのだ。

 赤への愛着は、人類の潜在意識に深く刷り込まれているようだ。最初期の人類は目の覚めるような赤いオーカーをとくに好み(ただしスーダンのサイ島では黄色が好まれた)、それ以前の祖先種も、ほかの色合いより赤いオーカーを好む傾向があった。それにスペインのシマ・デ・ロス・ウェソス遺跡の『骨の採掘坑』で見つかった原初的なローズクォーツの石器(エクスカリバー)が珍しい赤色をしていたことも意味深い。

 赤に対する選好は、ヨーロッパ中の氷河期の洞窟の壁にも表れている。ただしこの頃には芸術家のパレットに黒が加わり、壁画の大部分が赤か黒、または両方の色で描かれている。すべての言語で認識され名づけられている、最も一般的な三色のうちの二色が、最古の芸術で最もよく使われていることを、私は興味深く感じる。そして残る一色の白は、どの言語にもそれを表す単語があるのに、氷河期の壁画に欠けているのが不思議な気がする。ヨーロッパで現在知られているすべての岩絵遺跡のうち、白い色が使われているものは数えるほどしかない。洞窟は壁自体が明るい灰色か、半透明の黄みがかった白色をしていることが多いため、芸術家は拝啓で白を表したつもりだったのかもしれないし、また白い顔料は入手が困難だから使わなかったのかもしれない。数少ない白い壁画は、すべてカオリン(白陶土)が使われている。カオリン粘土は赤と黒の塗料の原料に比べ、入手できる場所が限られているため、希少性が色の選択に影響をおよぼした可能性は十分ある。

 赤い顔料がオーカーからつくられたのに対し、黒い顔料はすりつぶした炭か、酸化マンガンを含む黒い鉱物でつくられた。炭はたいてい焦げた木から調達されたが、焦げた骨が使われることもあった。マンガンは鉱床から採取され、オーカーの鉱床の近くにマンガンが見つかることもあった。マンガンの鉱脈が洞窟内の岩に走っている場合もある。これ以外の色(とくに黄色と茶色)が使われた洞窟もあるが、全体の一〇%ほどでしかない。」

 

「洞窟内の岸壁を塗布する方法は、大きく分けて三つある。一つはブラシ状のものを使う方法。目で見た質感や、塗料に交じった微細な小片の分析から判断すると、顔料を伸ばすために(バイソンやマンモスの)獣毛や(荅などの)植物が用いられることが多かったと考えられている。二つめは、指や手を直接使って伸ばす方法だ。指を顔料に浸して壁に点を描いた壁画が多くある(指紋が残っていることもある)。この方法で描かれた、手の陽画(ポジティブハンド)と呼ばれるイメージは、手のひらに顔料を伸ばし、岩の表面に押しつけて残した手形をいう。指を絵筆にして描いた動物などの絵もときおり見られるが、複雑なイメージは何らかのブラシを使って描かれることが多い。

 三つめは、顔料を間接的に壁につける手法だ。これをする方法は二つある。一つにはすりつぶした炭やオーカーを囗に含み、少量の水を加えて液状化し、囗のなかで回してよく混ぜ、それを壁に均質になるように吹きつける。口で直接吹きつける方法と、鳥の骨や葦などのストロー状の道具を使う方法がある。私もやってみたが、思ったほど簡単ではなかった! この吹きつけ画法は、主に手形をつけるのに用いられた方法で、手を岩肌にぴったり押しつけ、その上と周りに顔料を吹きつける。手を岩から外すと手の輪郭が残るため、反転したという意味の『ネガティブ』ハンド(手の陰画)と呼ばれる。同じ手法で描かれた点も、いくつかの洞窟で見たことがある(道具を使って吹きつけたようだ)。点の陰画のそばにはたいてい手形があるため、この手法を知る人が両方を描いたと考えられる。

 もう一つのやり方も、口から吹きつける方法に似ているが、この方法ではオーカーや微細炭を手のひらに置き、壁に向かってフーッと吹きかける。吹きつけ画法と同様、口を使って吹きかけるか、ねらいを定めるためにストロー状の道具を使うこともある。洞窟の壁は湿っていることが多いから、粉が乾いていても壁に触れれば液化して定着する。この方法は仕上がりはやや劣るが、顔料を直接口に入れずにすむ。多少質が落ちても、顎に色がついたり、顔料の昧がいつまでも口に残るよりはまし、と考えた芸術家がいたのだろう(注:吹きつけ画法を実際に試してみたい人は、大事な人と会う予定のない日にやることを強くお勧めする……)。」

 

「ヨーロッパの氷河期は文化によって複数の時代に分類され、それぞれが代表的な石器の種類で呼ばれている。新種の石刃の発明や、既存の石器の刷新、改良は、生活面での変化に伴って起こったようだ。人々が氷河の変化に対応するうちに、文化も変わっていったのだろう。環境の激変を乗り切るには、道具をはじめ、日常生活のあらゆる側面を環境変化に対応させる必要があった。こうして生じた違いをもとに、初期の考古学者は約三万年間にわたる氷河期(後期旧石器時代)を、発掘された遺物を通して明らかになった文化、技術、社会組織における違いによって四つの下位区分に分類した。すなわちオーリニャック期、グラヴェット期、ソリュートレ期、マドレーヌ期だ。これらの区分は、氷河期の芸術を分類するのにも用いられるため、それぞれの特徴を簡単に説明しておこう。

 オーリニャック期は、現生人類のヨーロッパ到達後の最初の様式期で、四万年前から二万八〇〇〇年前頃までの時期をいう。これはヨーロッパの象徴的遺物と岩石芸術が残っている最も古い時代でもあり、最古の芸術品はこの時代の最初期につくられている。エル・カスティージョの赤い円盤とドイツのホーレンシュタイン・シュターデルのライオンマンは、どちらも約四万年前のものだ。その少しあとの、三万七〇〇〇年前から三万五〇〇〇年前頃の骨製と象牙製の最古のフルートや、うっとりするほど美しく綿密な壁画のあるフランスのショーヴェ洞窟遺跡も、この時代に属する。

 グラヴェット期は、後期旧石器時代の『黄金時代』とも呼ばれ、約二万八〇〇〇年前から二万二〇〇〇年前頃までにあたる。この時期には石器製作の技術が大幅に進歩し、入念な埋葬行為も見られるようになる。また象徴的な芸術品も多く生み出されるようになるが、この時代のものとしてはロックアートよりもポータブルアートの方がよく知られている。ドルニ・ヴィエストニッツェ遺跡から出土したような遺物が、グラヴェット文化の典型例だ。ヨーロッパ北部の気温は次第に低下し、北極圏の氷床が拡大したため、グラヴェット期の終わり頃にはヨーロッパ北酉部から南方への人類大移動が始まった。

 ソリュートレ期は二万二〇〇〇年前から一万七〇〇〇年前頃までを指し、最終氷期最盛期(LGM)と密接に関係している。人類の集団は南方への移動を強いられ、寒さから守られたヨーロッパ南部の温暖な地域に集まり始めた。集団間の交流が密に頻繁になったことが起爆剤となって、氷河期末期の『芸術の爆発』と社会の複雑化が引き起こされたと、多くの古人類学者が考えている。岩絵遺跡は集会所や儀式の会場となり、この時期の社会の統合に役立ったと考えられる。この時期の代表的な芸術様式は、それ以前の時期の技法をさらに発展させた、複雑な線刻画である。

 マドレーヌ期は、氷河期最後の様式的分類である。約一万七〇〇〇年前から一万一〇〇〇年前までにあたるこの時期は、最終氷期最盛期の終了とともに始まり、氷床の最終後退期と氷河期の終期を含む。人儀が再びヨーロプパ全体に拡散し、それまで氷の下にあったスカンジナビアやイギリス諸島などの新しい地域に移り住んだ時期だ。現在知られているすべての岩絵遺跡のうち、約七五%がこの時期のものと考えられていたが、新しい年代測定法によって年代が書き換えられたものもある。

 様式をもとにした伝統的な時間軸では、精巧で緻密な芸術品が見つかったすべての遺跡が自動的に氷河期後期に分類される傾向にあったため、時間軸が歪められている可能性がある。この根底には、芸術はヨーロッパで生まれたという長年の通説があった。そのため、芸術品は最初は単純なものとして始まり、時間とともに複雑化していったと考えられていたのだ。だがショーヴェ遺跡〔オーリニャック期〕などの発見を通じて、今では人類がヨーロッパに到達するはるか昔から、優れた芸術を生み出す能力をもっていたことがわかっているため、マドレーヌ文化の遺跡はこれまで考えられてきたほど多くないことが、今後明らかになるかもしれない。とはいえ、多くのすばらしい芸術品がこの時期に生み出されたことはまちがいない。たとえばスペインのアルタミラ洞窟の天井に描かれたバイソンや、フランスのルフィニャック洞窟のマンモスの壁画、フランスのニオー遺跡の壁を飾るさまざまな動物の絵などがこの文化の代表例だ。だがマドレーヌ期末期には環境が劇変し、壁画を描く慣習はぱったり途絶えてしまった。氷河期が終わり、新しい環境で新しい生活が始まると、遠い祖先たちが洞窟を飾っていた目的は意味をなさなくなったのかもしれない。」

 

「ここまでの岸壁画に広く用いられる主な年代測定法を説明してきたが、エル・カスティージョの一番の見所はさらに奥にある。さっきのぬかるんだ通路を上って、手形の回廊に戻ろう。ここにはおびただしい数の手形や円盤、複雑な記号とともに、黄色いバイソンがところどころに重ね描きされている。天井は高く、イメージはカーブした壁の正面に密集していて、そこから点と手形が左右に散らばっている。床からそびえ立つ方解石の柱と、天井からシャンデリアのように垂れ下がる方解石のつららが、光を受けてきらめいている。

 この壁の左手にある階段を上ると、さらに目を見張るような美しい洞室がいくつかある。太古からの方解石の柱が立ち並び、踊るバイソンに跳ねる雄ジカ、勇猛なオーロックス、そして無数の手の陰画と赤い円盤で壁が埋め尽くされているのだ。エル・カスティージョ洞窟は全長が三〇〇メートルを超え、すべてのエリアに人類の芸術活動の痕跡が見られる。この階層の奧部にある幅の狭い回廊には、高さ一二メートルほどの天井から巨大な方解石のつららが垂れ下がり、その下に澄んだ池が静かに水をたたえている。『円盤の回廊』と呼ばれるこの長い回廊には、壁の端から端まで五〇メートル以上にわたって赤い円盤が並ぶ。これらはさっき見た最古の赤い円盤と同じものだが、オーリニャック期の約三万五〇〇〇年前に描かれたと考えられている。この年代は、最古の円盤とそのそばの手形の年代を裏づけるものでしかないが、重要なのは洞窟の奥深くにこれらの円盤が描かれているということだ。オーリニャック期までの壁画は、洞窟の入口と最も手前のエリアだけに描かれ、人々が洞窟の奧深くまで足を踏み入れるようになったのはマドレーヌ期になってからだと、長らく信じられていた。だが、ここ、カスティージョ山の奧深くにある赤い円盤の列は、それを覆す証拠となった。

 二〇一二年にエル・カスティージョのウラン系列年代測定の結果が発表されると、あのシンプルな赤い手形と、その隣の何の変哲もない小さな円盤が、がぜん重要性を帯びた。初期のヨーロッパの祖先たちが岩壁画を描き始めた時期は四〇〇〇年も前に書き換えられ、さらに重要なことに、最初の現生人類が大陸に到達したのとほぼ同時期と考えられるようになった。つまり岩壁画は、人類が新しい環境に落ち着き、芸術のレパートリーを増やすうちに徐々に発達した慣習だというそれまでの通説とは異なり、人類が大陸に到達した直後に生み出した慣習か――あるいは人類が岩壁画を描くスキルをすでにもった状態でヨーロッパに到達したかのどちらかであることが明らかになったように思われる。

 二〇一四年に行われたインドネシア・スラウェシ島の洞窟壁画の年代測定が、よい手がかりになりそうだ。洞窟で見つかった一二の手の陰画と、二種類の狩猟動物の赤いオーカーの壁画の年代が、スペインで用いられたのと同じウラン系列法で測定され、その大半が三万五〇〇〇年以上前、最古の手形は三万九九〇〇年以上前のものと判明した。つまり、エル・カスティージョの円盤とほぼ同時期ということになる。古人類学者のクリス・ストリンガーは、人類の移動経路上にあるアジア大陸と、もちろん人類発祥の地であるアフリカでも、今後さらに古い洞窟壁画が発見されるだろうと予言している。これまでに見つかった最古の壁画に手の陰画が多いことを考えると、今後発見されるさらに古い壁画にも、手の陰画や点、円盤が交じっていることだろう。」

 

「オーリニャック期(約四万年前から二万八〇〇〇年前)には、壁画に描かれる動物と食卓に上る動物はほぼ一致していたため、初期のウマやバイソンの絵は、集団の生存に欠かせない重要な狩猟動物をただ描いたものと考えられる。壁画は狩りで仕留めた動物を表したもの(先史時代のミニアルバムのようなもの)だと考える研究者もいる。実際、最近の狩猟採集民は、ふだん狩っている動物を描くことが多い。また壁画は部族の若者に狩りを教える教材として使われていたという説もある(ただし、外に出れば本物の動物がいて体の構造を直に学べるのに、なぜわざわざ洞窟内に描くのか、という反論もある)。動物を描くことには、狩猟の成功を祈願するという呪術的な側面があったのかもしれない。描かれる動物と食用にされる動物の不一致は、のちの時代、とくにマドレーヌ期(一万七〇〇〇年前から一万一〇〇〇年前頃)に顕著だ。バイソンとウマが搖かれていた地域のなかには、環境が激変し、それらが食卓に上るどころか見かけることすらほとんどなくなった地域もあった。

 では彼らはなぜ食べもせず、近くで見かけもしなくなった動物を描き続けたのだろう? 一つの可能性として彼らは食料を獲得するために土地を転々とするなかで、実際に見たり狩ったりした動物を、洞窟の壁に描いたのかもしれない。そのほか、壁画がただの動物画ではなくなり、より象徴的な意味合い(部族のしるしなど)をもつようになった、あるいはウマやバイソンを描くことが芸術的慣習として定着し、周囲からいなくなったあとも描かれ続けた、などが考えられる。私には、あとの二つが本当のところに近いように思われる。つまり、絵画はより象徴的な意味を帯び、単に狩った動物を描く以上の芸術的慣習になったのではないだろうか。

 バイソンとウマのほかにも、岩絵遺跡によく登場する動物がある。やはりどれも狩猟動物で、オーロックス(野生のウシ)、マンモス、シカ(アカシカとトナカイの両方、図28参照)、アイベックス(野生のヤギ)などだ。それほどではないがクマやライオン、ケブカサイも、かなり多くの遺跡に見られる。これら危険な動物の絵のほとんどは、オーリニャック期に描かれたようだ。そのためヨーロッパに最初に到達した人々がそうした動物にとくに関心を払っていたのに対し、のちの時代の人々は実際に狩ることの多い、より小型の動物に関心を移したようにも思える。最後の点として、数は少ないが、多様な種類の動物が描かれている。たとえばキツネやオオカミ(イヌはまだ登場しないが、オオカミの家畜化は進んでいたかもしれない)、ジャコウウシ、野ウサギ、アフリカノロバなどの陸生哺乳動物や、フクロウやミズドリなどの鳥類、サケ、マス、ヒラメ、カレイなどの魚類や、アザラシさえ描かれている。」

 

「これほど写実的で躍動感あふれる人物画は、ヨーロッパの旧石器時代の芸術では類を見ない。北方の国にはこれに匹敵するようなものはないし、この周辺で人物画のある遺跡といえば、シチリア沖約一〇〇キロ(氷河期には陸続きだった)の小島にあるレヴァンツォ洞窟だけだ。この洞窟には四角い頭と寸胴の体、曲がった手足をもつ三人の人を描いた黒い絵があるが、アッダウラほど写実的でも躍動的でもない。だが二つの遺跡の動物画の様式は酷似しているため、もしかするとアッダウラ洞窟には、人物を描く才能にとくに秀でた人が一人いたのかもしれない。あるいは別の可能性として、一万三〇〇〇年前から一万二〇〇〇年前頃の氷河期末期の遺跡とされるアッダウラで、新しい岩壁画の画法が生まれつつあったのかもしれない。躍動的な人物画は一万年前以降の新石器時代には広く見られるようになったため、アッダウラ遺跡はこの様式が生まれた場所の一つだったとも考えられる。

 ここから北東に六五〇キロほど離れた、イタリアの長靴の『かかと』部分にあるロマネッリ洞窟にも、これらの遺跡と様式が酷似した一万二〇〇〇年前の動物画(シカとオーロックスの線刻画)がある。この遺跡には、明らかに人間を描いたとわかる絵はない(とても抽象的で定型化された、女性像のようなものはある)が、幾何学記号がある。しかしこれ以上北に行くと、つながりは途絶えてしまう。シチリアは今はもちろんヨーロッパの一部と見なされているが、氷河期の人々が今ほど密接に結びついていたとは限らない。シチリアは氷河期の間イタリア本土と陸続きだったため、北方と文化やアイデアの交流があっただろうが、おそらくアフリカとも行き来があったはずだ。イタリア北部の一部の遺跡は、フランスやスペインの遺跡と交流があったようだが、氷河期の人やアイデアの移動を知る手がかりはほとんど見つかっていない。シチリアとイタリアには、まだ発見されていない多くの岩絵遺跡があると思われ、調査が進んでいないこの地域で、今後多くの発見がなされることだろう。

 現在シチリアはチュニジアと約二〇〇キロの海で隔てられているが、地中海の水が北極の氷床に閉じ込められていた頃は、今よりずっと簡単に行き来できたはずだ。アッダウラの精巧な線刻画は氷河期末期近くのものとされるが、北アフリカ(アルジェリアのタッシリ・ナジェールとホガール山地の洞窟、エジプトの『泳ぐ人の洞窟』など)と近東(トルコのチャタルホユック遺跡)にも、同じ頃か少しあとに描かれた写実的な彩色画や線刻画が存在する。現時点では、南北の芸術家たちのつながりを裏づける確かな証拠はない。だが今後、文化が出現した年代や、地中海南東部の遺跡間の類似性がさらにはっきりすれば、シチリアの芸術と文化が、ヨーロッパより北アフリカでの動向に色濃く影響を受けていたことが明らかになる可能性は十分ある。そしてシチリアの様式が異例なのは、人間の描写だけではない。このあとすぐ見ていくように、幾何学記号もとても珍しいのだ。」

 

「シチリアの遺跡にある幾何学記号の多くは、アッダウラ洞窟の人物画にも引けをとらないほど異例なものだ。普通は洞窟内の複数のエリアに多様なモチーフが散らばっていることが多いのだが、この島の洞窟のイメージは驚くほど種類が少ないうえ、抽象記号は洞窟の入口と、そのすぐ内側の陽の当たる場所に集中している。そして記号の大半が、線と山形記号の線刻だ。単独で刻まれているものもあれば、平行または斜めに並んだものや、複雑な配列のもの(積み重ね、重ね描き、同じパターンのくり返しなど)もある。どの記号も壁に深く刻みつけられている。この二種類の記号は、私がシチリアで訪れた遺跡の半数以上で見られ、多くの場合ほかの記号は見られない。記号の種類がこれほど限られ、しかもそれが多様な配置で並んでいるのは、とても特徴的なパターンだ。しかしこのようなパターンは、シチリアだけに特有のものではない。

 私がシチリアのザーミニカ洞穴とその他六ヵ所の洞窟の記号を見てまず気がついたのは、その前年にスペイン北部のヴェンタ・デーラーベラ洞窟の入口の外で見た、線と山形記号の二つの集まりに酷似しているということだった。完全な一致ではないが、遠く離れた遺跡が、テーマと技法、記号の配置という点でこれほど似通っているのは不気味ですらあった。さらに不思議なことに、ヴェンタ・デ・ラ・ベラは西ヨーロッパの遺跡のなかで、洞窟の入口にパターンが刻まれた、たった二つの遺跡のうちの一つで(残る一つはさらに西に離れた、スペイン北部アストゥリアス州のラ・ヴィーニャ遺跡)、しかもこれら二つの遺跡はグラヴェット期(二万八〇〇〇年前から二万二〇〇〇年前)かそれ以前のものなのだ。しかし、シチリアで芸術が生み出されるようになったのは、氷河期末期と考えられている。またイタリア本土の(アッダウラ洞窟のものと似た動物画のある)ロマネッリ洞窟も、シチリアの多くの遺跡と多くの共通点がある。年代が同じ(約一万二〇〇〇年前)というだけでなく、同じ種類の線刻記号があるのだ。床の層から発掘された小石に山形の重なりや重ね描き、そしてはしごのようなパターンが刻まれているほか、入口近くの壁に縦線や傾いた線でできた抽象的なパターンが刻まれているのが見つかった。しかしここから足取りは途絶え、いきなりスペイン北部に同じものが出現するのだ。

 二四〇〇キロを超える距離と一万年を超える時間によって隔てられた二つの地域の間につながりがあるなんて、そんなことがあり得るだろうか? もしかするとスペインに住んでいた人々がその後南方に移動し、最終的にシチリアやその他のイタリアの地域に落ち着いて、記号を伝えたのかもしれない。または洞窟を『占有した』ことを他者に示す、身元や所有のしるしとして、抽象的なパターンを用いる慣習が広く共有されていた可能性もある。洞窟の外の石や入口が、時間による傷みが最も激しいことを考えると、二地点の間にあったほかの証拠は消失してしまったのかもしれない。別の可能性として、同じ何かの活動(たとえば壁で石器を研ぐなど)が行われた結果として、壁や遺物に同じ模様がついたとも考えられる。ただし私の目には、抽象的なパターンの多くは、刃を研いだ跡にしては整いすぎているように見える。だがもっと多くのデータがなければ、根拠に基づいた推測は行えない。そこでほかの地域に見られる、より明確なパターンを手がかりに、ここで何か起こっていたのかを考えてみよう。」

 

「動物と人間のイメージは、どちらも具象芸術に分類される。具象芸術とは実世界に存在する事物や存在をかたどった芸術で、実際の外観を多少なりとも表していると見なされる。これに対して記号は、一般に非具象的(抽象的)なイメージに分類され、日常世界の何にも直接対応していない、抽象的なしるしと解釈されてきた。だがその考えが(少なくとも部分的に)誤っていることを、これから説明しよう。

 私は記号について研究すればするほど、種類の異なるイメージが幾何学記号という都合のよい分類に詰め込まれていると、確信するようになった。ここ一〇〇年ほどの間、幾何学記号という分類は、判定できないイメージのはきだめと化していて、動物とも人間とも特定できないものがすべてここに投げ込まれている。その結果この分類は、『非具象的と見なされている』という以外に何も共通点がないかもしれない、ありとあらゆる形状のイメージから成る、非常に大きな分類になっている。実はこの分類のなかに、異なる種類のモチーフが紛れている可能性があるのだ。だが私の考えを紹介する前に、幾何学記号そのものについて少し説明しておこう。

 まず背景情報として、幾何学記号はヨーロッパのほぼすべての氷河期の岩絵遺跡に見られ、多くの遺跡に、動物と人間のイメージを合わせた数の二倍以上の記号がある。すべての遺跡を合わせると数千個の幾何学記号が発見されているわりに、具象芸術に比べるとほとんど注目されず、研究も進んでいないのは興味深いことだ。

 氷河期の芸術の中心的要素は動物画だと、長らく考えられていた。太古の狩猟採集民が、描いていた動物の多くを実際に狩っていたことが、その根拠の一つだった。初期の研究者には、記号に意味があるどころか、意図をもって書かれたことさえ疑わしいと考える人たちもいた。たとえばフランスの考古学者で、洞窟壁画研究の草分け的存在アンリ・ブルイユは、記号は美しい動物画を損なう『寄生虫のような線』だと決めつけ、遺跡の目録や、動物團や人物画を模写した多数のスケッチに、記号を含めようともしなかった。他方、記号の存在は認めつつも、具象的なイメージを補うための飾りか、何気ないいたずら描きのようなものと考える研究者もいた。そして一九六〇年代初頭には有力な考古学者のアンドレ・ルロワ=グーランが、氷河期の芸術のすべてを説明しようとする壮大な学説を提唱した。彼は記号を含むあらゆるイメージを二元的体系に分類した。この体系では、一つの遺跡内のすべてのイメージが男性的または女性的なシンボルに分類され、ウマのような動物は男性を表し、バイソンには女性的側面があるとされた。そして記号も同様に男性記号(直線や角)と女性記号(円や曲線)に分類された。この説は広く受け入れられ、その後の約三〇年にわたって、記号に関わる研究のほとんどがこの先入観のうえに行われた。だが概していえば、幾何学記号はとらえどころがなく、まともな研究対象にならないと、古今の多くの研究者に見なされてきたため、この興味深いイメージについては今に至るまでほとんど何もわかっていないのが現状だ。」

 

「最近まで大規模研究を支えるコンピュータ技術は存在しなかった。二〇世紀の研究は単一の洞窟か、同じ地域の少数の洞窟を対象とするものがほとんどで、多数の遺跡にまたがる広範なパターンを見出すのは難しかった。しかし私はリレーショナル・データベースという新しい技術と、地理的情報、そして長時間かけて洞窟を這い回って得た情報を駆使して、ヨーロッパ全体の記号を初めて比較することができた。非常に興味深いパターンが明らかになり始めている。説明しよう。

 氷河期の岩絵遺跡が集中している地域は、西ヨーロッパに多い。現時点でフランスの一七〇ヵ所、スペインの一三三ヵ所、ポルトガルの一八ヵ所の遺跡が確認されている。ポルトガルの遺跡は二ヵ所が洞窟遺跡で、残りの一六ヵ所はすべて野外遺跡だ。イタリアには三八ヵ所の遺跡があり、大半がシチリアに集中している。また東ヨーロッパとバルカン半島にも、あまり知られていないが遺跡がいくつかある。ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルーマニア、スロバキアの数力所と、セルビアで初めて特定された新しい遺跡がある(ハンガリーとブルガリアにも遺跡があると聞くが、まだ情報を得ていない)。さらに東の、ロシアのウラル山脈にも遺跡が一ヵ所ある。これらを合計すると、ヨーロッパには四万八〇〇年前から一万年前までの岩絵遺跡が、現時点で三六八ヵ所存在する。だが新しい遺跡が今も続々と見つかっていて、この先も増え続けることはまちがいない。

 少数の外れ値(図32などのように、一ヵ所にしか見られない記号)はあれ、圧倒的多数の記号が、私の作成した記号の類型(分類体系)に該当した。主要な記号は合計三二種類で、それぞれに特有の利用パターンが認められる。ヨーロッパ大陸全体という広大な地域と、三万年という悠久の時間を考えると、三二種類というのは驚くほど少ない数だ。私がデータの収集を始めた二〇〇七年には、ヨーロッパ全体の記号の正式なリストは一つもなく、また同じ記号が地域によって呼び名が異なるせいで、どれくらいの種類があるのか見当もつかなかった。一例として『鳥形記号』(アヴィフォーム、ラテン語で『鳥の形』を意味する)は、地域によって『栄誉の記号』や『カッコ』と呼ばれていたり、フランスの

一部の地域では発見された遺跡の名(プラカード)をとって『プラカード式』記号と呼ばれることもある。

 自分が訪れる遺跡にどんな記号があるかを事前に予想できなかったため、最後の洞窟のデータを入力するまでは、類型を完成させることすらできなかった。だが、たった三二種類という結果が判明し、この種類の少なさが何を意味しているかがようやく腑に落ちると、全身に鳥肌が立った。多くの地域で使われていた記号がこれほど重複しているのは、けっして偶然ではない。これらの記号は、芸術家が適当に施した飾りなどではないのだ。これはどの一致と継続性が見られるからには、太古の祖先はすでに何らかの記号体系をもっていたにちがいない。そしてその体系を理解するための唯一の方法が、パターンを研究することだった。

 これほど少数の幾何学記号が時空を超えて用いられていたことから、記号の意味は理解できないまでも、それを生み出した人たちにとって大切で意味のあるものだったことは、私にもわかった。氷河期の遺跡の一つひとつが異なる種類の記号で飾られていたことからも、その選択に意図がはたらいていたことがうかがえる。すべての遺跡に見られる記号は一つもない。単純な線の記号でさえ、どこでも見られるわけではない(七五%の遺跡にしかない)。だが同じ三二種類の記号がこれほど長い間くり返し用いられていたことから、文化的に分かれた集団が、その後も同じ図形を描く慣習を守り続けたことがわかる。そうした慣習のなかには、ヨーロッパ全体に広まったものもあれば、狭い地域にとどまったものもあった。だが古い記号の多くが、新しく発明された記号と並行して使われ続けた。それぞれの遺跡で、人々がどの記号を描くかについて、意識的な決定を下していたのは明らかだ。惰性で選ばれた記号は一つもなかった。」

 

「それではちょっとここで、『はじめに』で示した三つの研究課題をふり返ってみたい。

 一.記号はヨーロッパで発明されたのか、それともさらに古い慣習から生まれたのだろうか?

 

二.ヨーロッパ全体の遺跡に、同じ少数の記号が見られるだろうか? またそのことから、氷河期の人々やアイデアの移動について何かわかるだろう?

 

 三.記号は図形によるコミュニケーションの手段として実際に用いられていたのか? もしそうなら、当時どんな言語が話されていたかを知り得ない私たちが、どうやってそれを証明できるだろう?

 

 もっとも、私は第二章から一つめの問いに答えようとしてきた。古人類学者はここ数十年間のアフリカでの調査研究によって、『芸術の創造はヨーロッパに最初の現生人類が到達したあとで始まった』という、従来の前提の見直しを迫られている。六万年前より前にアフリカに暮らしていた現生人類が、きわめて現代的な行動にすでに携わっていたことは明らかだ。彼らは死者を埋葬し、簡単な副葬品を墓に入れ、色彩象徴をうかがわせるような方法でオーカーを用い、穴のあいた貝殻を宝飾品として身につけていた。また私にとって最も重要なことに、オーカーの破片やダチョウの卵の殻などの品に、抽象的なしるしをつけていた。

 ヨーロッパの記号のデータベースから私が得た結果は、人類が象徴的行動を通説よりも早くに身につけていたという考えを裏づけているように思われる。まず三二種類の幾何学記号のうち、二一種類(六五%)がオーリニャック期にはすでに用いられており、その多くが最古の遺跡に現れる。これほど早い時代にあっても、記号はすでに広範な地域で用いられていた。これに、ドイツの象牙の小像などのポータブルアートに描かれた幾何学記号を含めれば、地域はさらに拡大する。また最古の遺跡では、使われている記号の同一性が驚くほど高い。線、点、山形、楕円、手形、十字形、四角形、三角形、円とその組み合わせが、多くの遺跡で繰り返し見られる。これは記号が発明されたばかりの状態というよりは、さらに古い共通の起源をもつ芸術的慣習の分布パターンといった方が近い。そしておそらくその慣習は、祖先たちがアフリカのサバンナにいた頃にまでさかのぼるのだろう。とはいえ、南アフリカのブロンボスとディープクルーフから、ヨーロッパのオーリニャック期に向かって、一直線に発展したとは必ずしもいえない。これらの人々と地域が何らかのかたちで直接つながっていたかどうかはわからないからだ。しかし最初の集団がアフリカを出て旧世界に向かうよりずっと前に、この象徴的な慣習が生まれたのは確かだろう。またこのことは、フランス、スペイン、そしてインドネシア、オーストラリアという、遠く離れた場所の最古の芸術がとても似通っている理由を解明する大きな手がかりになるはずだ。

 初期に使われていた共通の記号の一部は時とともに廃れ、新しい記号が発明された。これはある単一の文化集団、このケースでいえばヨーロッパに最初に到達した人類の集団が各地に散らばり、多様な気候や生活様式に適応するうちに、わずかに異なる独自の文化を生み出していく際に予想されるパターンだ(たとえばドルニ・ヴィエストニッツェの極寒の村での定住生活と、より温暖なスペイン北部の狩猟採集民の生活を比べてみるといい)。それにもちろん定期的、持続的な交流を通じて共通の慣習や文化を維持しなければ、違いが生じるのは時間の問題だ。」

 

「次に、記号かたどったパターンを、具体例を挙げて説明しよう。まずは手の陰画(ネガティブハンド)だ。このイメージは人間の手のように見えるから、当然具象的イメージに分類できる。だが手の陰画がどのように用いられていたかを考えると、そこにはより象徴的な意味合いがあったように思われる。手形は誰かが遺跡にいたこと(『私はここにいた』)を知らせるために使われたとも考えられるし、個人や集団の象徴的なしるし(全体を一部に置き換えて表現する、提喩という方法)として、あるいは初期の手まね言語(サインランゲージ)の一種として使われた可能性もある。手まね言語説は、指を折り曲げた手形が一部の遺跡に描かれていることに由来する。最近の狩猟採集民の多くも手まね言語をもち、獲物に近づきすぎて大きな声を出せないときに、指示を出したり連携を図ったりするために使っている。したがって壁の手形のなかには、狩人が仲間に簡単なメッセージを伝えるために残していったものがあるかもしれない。いまあげたすべての説で、手形は抽象的な役割を担っている。だからこそ私は手形を人間を表すイメージではなく、記号に分類するのだ。

 前に説明した通り、手の陰画は世界(少なくともヨーロッパとインドネシアの)最古のイメージの一つだ。手の陰画はフランスとスペインの計三一ヵ所の岩絵遺跡にしか見られず、どの時代にも最も一般的な記号だったことはない。この記号がとくに異例なのは、後期旧石器時代の前半に最もよく使われ、その大半がオーリニャック期とグラヴェット期の遺跡に現れることだ。それよりあとの時代(二万二〇〇〇年前以降)では八ヵ所の遺跡に見られるが、これらの遺跡のほとんどは、まだ年代が確定していない。これに対してより古い遺跡の多くは、手形の年代が直接測定された(エル・カスティージヨ)か、ほかの同時代のイメージの年代が測定された(ショーヴェ)か、非常によく似たイメージのある周辺の遺跡の年代が直接測定されていて、年代がよりはっきりしている。手形が時とともに廃れる傾向は確かに見られ、西ヨーロッパでは一万三〇〇〇年前頃を最後に、完全に消え去った。」

 

「羽状記号(ペニフォーム)という名は、『羽』または『羽の形』を意味するラテン語から来ている。屋舎記号と同様、羽状記号もあとの時代に生まれたが、より典型的なパターンをたどって広まった。最古の羽状記号はフランス北部のアルシー=シュル=キュール洞窟にある、オーリニャック期とグラヴェット期の間の端境期にあたる、三万年前から二万八〇〇〇年前頃のものだ。そしてちょうど同じ頃に、そこから西に少し離れたフランス北部の別の遺跡、マイエンヌ=シアンスにも現れた。

 それ以降、羽状記号は拡散し始め、南方のフランス東部と西部へ、そこからさらに西方のスペイン北部に広まった。マドレーヌ期(一万七〇〇〇年前から一万一〇〇〇年前)になると、羽状記号はフランスの多くの遺跡(フランスの知られている全遺跡のほぼ六〇%)に現れ、スペインにもかなり広まり(同三〇%)、氷河期末期にかけてポルトガルにも伝わった。当初は気候状態の悪化と氷床拡大を受けて人々が南方に移動するうちに伝わったように思われるのに対し、あとの時代には分布がより広範囲におよんでいることから、当時多くの地域をつないでいた交易ネットワークを通じて伝わったと考えられるのだ。

 このように一つひとつの幾何学記号に、独自の特徴的な拡散のパターンが見られる。この足跡をたどることによって、地域間にどんな文化的つながりがあったのか、人々やアイデアが氷河期の土地をどう移動していったのかに関して、驚くほど多くの手がかりが得られている。また拡散のパターンを通して、当時図形を用いる新しい慣習が確かに存在したことを、今後明らかにできるだろう。記号や、氷河期の芸術全般は、図形を用いたコミュニケーションの起源を理解するための重要な情報源なのだ。そこでこれからの数章で、記号の意味に関して考えられる解釈を見ていこう。だがそのためには、まず次の二点を検討する必要がある。(1)記号は図形によるコミュニケーションの一形態なのか?(2)図形によるコミュニケーションとは、いったいどういうものか? 太古の記号と図形によるコミュニケーションとの関係が、これまできちんと考察されてこなかったことを考えると、これらは何よりも興味深い問題といえる。」

 

「意図的な図形記号が初めて生み出された瞬間は、道具の発明や火の制御、音声言語の発達と並ぶ、人類史上最も意義深い瞬間だった。その記号はただの線だったかもしれないが、どんな記号だったかはこの際重要ではない。重要なのは、人類史上初めて誰かが『意味を伝える』という目的をもって、物体の表面にしるしをつけたことなのだ。そのメッセージには時空を超えて存続する力があり、言語はそれを発した人の寿命を超える永遠の命を授かり、本格的に一人歩きし始めた。最初の記号が、現在世界中の人々が使っている図形によるコミュニケーション体系に進化するまでの道のりは遠かったが、いったんこの重要な第一歩が踏み出されると、記号はあたりまえのように広がっていった。」

 

「恣意的なシンボルが用いられ、意味に関する合意が存在するという点で、図形によるコミュニケーションは、音声言語によるコミュニケーションと多くの共通点がある。だが図形によるコミュニケーションは、耐久性の高いものに記されれば、遺跡や遺物に直接的な証拠が残る可能性がずっと高いため、この慣習の発達や起源を解明する貴重な手がかりを与えてくれるのだ。では氷河期ヨーロッパに文字はあったのだろうか? 考えてみょう。

 スペイン北部のラ・パシエガ遺跡にある『記号の碑』は、旧石器時代の芸術のなかでもとくに珍しい記号の集まりだ。ラ・パシエガは、エル・カステイージョと同じ山地にある重要な氷河期の遺跡の一つだが、そのなかでも砥石や紫のバイソンの壁画といった、きわめて珍しい特徴をもつことで知られる。だがそれよりもさらに珍しいのが、この複数の階層に分かれた洞窟の奥部にある、迷路のような通路の壁の、上方に描かれた奇妙な記号だ。傾いた白っぽい壁の床から三メートル六五センチを超える高さのところに、抽象記号が深紅の塗料でくっきりと描かれている。芸術家は険しく滑りやすい壁をよじ登ってこれを描いたのだろう。

 私はこのイメージを初めて見たとき、とても整然としていて意図的だという印象をもった。記号は狭い間隔を置いて三つのまとまりに分かれているように見える(図35)。一番複雑なのは左側のまとまりで、下に二本の横線が引かれ、この線からいくつかの記号が上に向かって垂直に伸びている。全体は左右対称で、真ん中に縦線が一本あり、その両脇に楕円が二つ縦に重ねられ、両端には二本の縦線が描かれている。中央のまとまりは『定型化された足』と呼ばれ、二つの縦長の楕円形の上部から、五本の短い線が足指のように上向きに伸びている。そして右側のまとまりは一つの記号からなり、大文字のEの真ん中にもう一本横線を足したようなかたちをしている。アンリ・ブルイユは一九一三年にラ・パシエガを訪れたとき、この記号の集合を『神秘主義的な図』と表現した。また彼はこれを初めて『碑』と呼んだ先史学者の一人だった。『この記号を文字体系〔言語を文字によって表記するための系統的な方法〕の一部と見なすべきか』という問いは、いまだ議論の対象となっている。そしてこの問いは、これからとりあげるさらに大きな問いの一部をなしている。

 すなわち、『それは文字なのか?』。

 私が記号について一番よく聞かれるのは、まちがいなくこの質問だ。最古の文字体系が現れるのは、氷河期が終わってからずっとあとのことだから、文字の起源や原文字の出現は、本来なら古人類学者の研究対象ではない。もちろん私は自分の注目する幾何学記号が、現代の英語や古代エジプトのヒエログリフ(象形文字)のような本格的な文字体系でないことはわかっていたが、それでも目にとまるパターンが偶然の産物のようにはとても思えなかった。私には自分の推測をきちんと説明するための語彙や、言語学の基礎知識が欠けているという引け目があったため、まずこの分野についてしっかり学び、文字の発明と発達に関わるプロセスについて理解を深めた。数年間学んだ甲斐あって、言語学の専門家とまではもちろんいかないが、少なくとも前期旧石器時代の記号について自分の考えていることをよりよく説明できるまでにはなった。それをこれから説明しよう。

 記号と分類されているもののなかに、文字の一種が含まれているのではないかという考えは、もとはポータブルアートが初めて出土した一八六〇年代に提唱された。象牙のバトンや石額、骨や枝角でつくつた芸術品の多くに非具象的な模様がついていたため、当時の研究者の間で、刻まれたモチーフが未解読の文字体系ではないかという意見が上がったのだ。それからの数十年間で氷河期のロックアートが次々と発見され、その多くに幾何学記号が描かれていたことから、それらが文字ではないかという推測に拍車がかかった。だがその後言語学の研究領域が広がり、文字体系に含まれるもの、含まれないものがより明確に定義されると、この仮説は廃れていった。言語学者は今も旧石器時代の芸術を、文字でないものの例に挙げることがあるし、古人類学者は言語学から借用した用語を使って、この時代の芸術を定義する(抽象的なしるしを『記号』と呼ぶ慣行は、言語学に由来す)。だがどちらの学問分野も、『旧石器時代の記号が意味をもつが文字でないというのなら、何と分類すべきか』という問いを突き詰めることはなかった。またどちらの分野も、私にとって最も興味深い問いに答えてはくれなかった。すなわち、『氷河期にシンボルの利用が発達したことが、のちの時代の文字体系の発明の道を開いたのだろうか?』というものだ。文字は六〇〇〇年前から五〇〇〇年前に、何もないところから降って湧いたのではなく、文字の起源はそれよりさらに二万年以上前にさかのぼることはできないだろうか? 私はそうできると確信している。」

 

「本物の文字と、それ以外の視覚的・図形的表現とのちがいが、『音声言語を体系的に表記するシステムかどうか』という点にあることは、この分野の学者の間で定説になっている。このためには単語のほかに、それらを修飾し結びつける手段(代名詞、形容詞、副詞など)が存在しなくてはならない。ひと言でいうと、文字体系が存在するということは、話し言葉で表せることを何でも図形を使って表せるということだ。これが、文字体系の定義のなかの『慣習化』にあたる:文字体系とは『耐久性のある面に書かれた、視覚的で慣習化された記号を利用する、相互コミュニケーションのシステム』である。

 氷河期に存在した幾何学記号の種類とその使われ方を考えると、幾何学記号が当時の人々の音声言語で使われていたであろう幅広い単語をすべて表すことができたようにはとても思えない。というわけで幾何学記号は文字体系の定義のうち、『耐久性のある面』と『視覚的な記号』という条件はクリアしていたが、『慣習化』という条件は満たしていなかったようだ。」

 

「文字が初めて現れるのは、氷河期の終了などのように、社会が大きな変化を経験する時期であることが多い。取引や記録に関わる語彙をもつ初期の原文字が最初に現れたのは、一万年前頃のことだった。農耕中心の社会になり、人口が増え、都市を中心とする定住生活が始まるなかで、図形を利用した表現が発達し、ときには慣習化することさえあった。文字は大規模な階層社会内で、文化や宗教、経済などのルールに関する共通理解を図るために欠かせないツールだが、そのような社会は、氷河期のヨーロッパには存在しなかった。つまり、氷河期のヨーロッパで文字が見つからないのは、当時の人たちが文字の発明に必要な認知能力をもっていなかったからではなく、狩猟採集型社会では文字があまり必要とされなかったせいもあるのだろう。

 絵文字、定型化された図、初期の記数法(抽象的な数を表す方法)は、すべての大陸で先史時代のごく早い時期に見つかっている。このことから、情報を視覚的に表現し記録したいという衝動が、最初の文字が出現するはるか前から存在していたことがわかる。私は八万年前から一〇萬円前のアフリカの抽象記号が、この慣習の最初の兆しといえるのではないかとさえ考えている。なぜなら人類の認知能力が飛躍的に伸びたのは、ここアフリカにおいてだからだ。私たちは平面上に書かれた線や模様を、現実のものごと、つまり立体的な世界の事物や概念と、あたりまえのように結びつけている。だがよくよく考えてみると、記号と現実のものごとは、恣意的な対応関係を除けば共通点はほとんどない。バイソンを描くような単純な場合でもそうだ。バイソンをつくるさまざまな特徴、たとえば大きさや動き、におい、音、毛皮の手触り、筋肉質の厚い体、激しい気性といったものは、平面的な絵に引き直せばすべて失われる。幼い頃からこういった図の『読み方』を教わる私たちは、ことさらそんなことは意識しないが、具象芸術にさえ、象徴を解釈するという高度な能力が求められるのだ。

 定型化された記号や抽象記号になると、ことはさらに厄介になる。なぜなら記号とそれが表す対象との間に、ほとんど類似性がないからだ。一例として、アフリカのブロンボスやディープクルーフの幾何学記号が、実際に所有者のしるしを表すものだったとしよう。この場合、所有者である個人や一族は、格子形や十字形などの抽象的な線刻模様とはもちろん似ても似つかないから、両者を結びつける直接的なつながりはない。むしろ模様の方が、特定の人や集団と関連づけられるようになった。この結びつきを全員が理解し、受け入れていれば、誰もが一目見ただけで、そのオーカーの破片やダチョウの卵殻の水入れのもち主がわかる。とはいえ、彼らがあのようなしるしを刻んでいた実際の理由を、私たちは知る由もない。人類は当時まだシンボルを自由に扱えるレベルには達していなかったかもしれないが、ヨーロッパに到達したときにはその能力を備えていたはずだと、私は信じている。身近な世界の具体的なものごとと抽象的なモチーフとを結びつけるのに必要な象徴的、連想的な飛躍を遂げるために、どれほど複雛な認知能力が必要だったかを考えてほしい。この能力こそが、その後のあらゆる種類の図形的コミュニケーションの基礎になったのだと、私は確信している。

 というわけで、『それは文字なのか?』の問いに対する答えは、残念ながらノーだ。それでも氷河期の岩壁画は、描き手にとっては意味があったはずだし、何かを伝えるという側面があったにちがいない。単に、はっきり言語とわかる記録がまだ見つかっていないだけなのだろう。とすると、ラ・パエシガの記号の並びは偶然の産物だろうか? そんなはずはない。むしろ真実はその逆だろう。あれはいくつもの記号をつなげてより複雑なメッセージを伝えようとする試みだったのだと、私は考えている。記号を組み合わせることによって大きな可能性が開けることを理解していた人たちが、すでに旧石器時代にいたことを、あの記号は確かに示している。ただ、それが文字体系だったかという問いに関していえば、あのような記号の並びはきわめて例外的なものであって、発展しつつある体系の一端ではなかったという結論になる。

 というわけで、次に問うべき問題はこうだ。この時代の記号に意味があり、それらが何らかの情報を伝えるためのものだったというのなら、いったい何を伝えようとしていたのだろう?」

 

「これを説明する前に、歯に刻まれた記号について少し説明しておこう。幾何学記号のある四八本の歯に、合計四五種類の記号またはその組み合わせが見られる。これを図37に示した。複数の歯に見られる記号(またはその組み合わせ)は三種類だけで、それぞれが二本ずつの歯に刻まれている。その三種類とは、十字形、二本の平行線、等間隔につけられた三本の線だ。残りの歯の模様はすべてちがっているが、必ずしも使われている記号がちがうわけではなく、同じ記号だが間隔のあけ方や配置が異なるものもある。かくして、首飾りが最初に発見されてから八十数年の年月を経て、歯に刻まれた全記号の完全な一覧がとうとう完成したのだ。

 こうして記号を視覚的に記録したことによって、続いて記号が刻まれた方法別に歯を分類することができた。つまり、歯の記号が複数の人によってつけられたのか、また同じ歯のすべての記号が一度につけられたのか、数度に分けてつけられたのかということだ。記号のある四八本の歯のうち、鮮明で意図的につけられたしるしがあるのは四〇本だ。残りの八本のしるしは意図的だが、それほどはっきり刻まれていない。

『鮮明で意図的』なしるしは、どれも様式が非常によく似ている。刻み目が石器を使ってつけられたことと、ためらいや刻み直しが見られないことが、顕微鏡分析を通して明らかになっている。つまりしるしを刻んだ人は歯に石器を当てる前から、どんなしるしを刻むつもりかを意識していたのだ。『意図的だがそれほど鮮明でない』分類に入れられた八本の歯は、石器が使われているが、刻み直しが見られる。しるしのない二三本の歯も、刻み目のある歯と同じように研磨され、上部に穴があけられていた。もし歯が並んでいた順序がわかれば、しるしのない歯が『小休止』だったのか、しるしのある歯の間に入れて間隔を確保するスペーサーだったのかがわかって、興味深い発見になっていただろう。」

 

「これらの記号の意味は今も不明だが、並んだ記号が果たしていた役割について、私にはいくつか考えがある。歯に刻まれた記号の種類を考えると、首飾りは何かの記数法(数を表す方法)か、何かを思い出すための手段(記憶補助)だったのではないか。なぜなら首飾りの記号は、洞窟画によくある多様な形状の記号ではなく、刻み棒(タリースティック)によく見られるような、数本の線からなる記号が主だからだ。狩猟採集民の社会では、仕留めた獲物の記録に始まり、季節的なできごと(秋のサケの遡上など)の把握や儀式の日程管理に至るまでのさまざまなことに刻み棒が使われる。もう一つの可能性として、線の記号は大切な物語の口承や儀式での暗誦の記憶補助として使われていたとも考えられる。物語の語り手は伝承を正しく伝えるために、歯のしるしを使って物語の重要な要素を思い出していたのかもしれない。

 もちろんこれらはただの推測でしかないが、結んだひもや多色に塗った貝殻、印をつけた小石、刻み棒などの品が、そうした記憶術で実際に使われていた例は多くある。このことは歯の記号を解読する直接の手がかりにはならないが、それでもサン・ジェルマン・ド・ラ・リヴィエールの婦人や彼女と同時代の人々が、情報をあとで呼び出せるように、図形というかたちで頭の外に保存していた可能性が確かに示唆される。これは原文字体系の発達と密接に関わる、きわめて抽象的な行為なのだ。」

 

「この曲折模様は、本当は具象的なイメージなのに幾何学記号と見なされている、多くの記号のうちの一つなのかもしれない。非具象的イメージに分類されたしるしのなかに、明らかに日常的な事物を表していると思えるものがあっても、それを立証できた人はこれまで誰もいない。私たちに何より不足しているのが、コンテクスト(背景や状況に関する情報)だ。一九六〇年に岩石芸術研究者のパオロ・グラジオーシは、洞窟内の記号は『純粋な象徴性や抽象性に満ちた空気のなかに浮遊している』ように見えるという言葉で、記号をめぐる謎を巧みに総括し、そうすることによって記号の意味を覆い隠してしまつた。これまで発見されているのが主に洞窟内のイメージであることを考えると、古人類学者が太陽や草木といった日常世界の具体的な事物と記号とのつながりを指摘するのをためらってきたのも無理はない。

 だが岩壁画をまったく違う環境のなかで見たことで、私の考えは一変した。あのときを境に、抽象芸術がそれほど現実から切り離されたものに思えなくなった。曲折模様を合流する二本の川に見立てたことで、新しい可能性が一気に開かれた。そしてすべての決め手となるのが、コンテクストなのだ。私はポルトガルで太古の芸術家と同じ場所に立ち、彼らが岩壁画を制作する間に眺めていた光景を見わたし、暮らしていた環境をかいま見た。柤先たちの目を通して世界をとらえることができたのだ。

 これまで別の解釈もいくつか提唱されてはいるが、幾何学記号は今もはきだめ的な抽象イメージの分類に入れられたまま、放置されている。それは主に、具体的な事象を表している可能性を検証できるだけのデータがなかったからだ。しかし今、私にはデータがある。このデータと、ポルトガルへの寄り道で得た啓示をもとに、私は洞窟の幾何学記号を新しい視点からとらえ直そうとしている。すなわち、幾何学記号のなかには、実世界の事物を定型化された様式で表現したものがあるのではないだろうか? ここでは出発点としてポルトガルの曲折模様をとりあげたが、続いてより多くの記号に対象を広げ、抽象記号に具体的な意味を読みとれるかどうか考えてみよう。」

 

「スペイン北東部の一万三五〇〇年前のものとされるアバウントゥス洞窟の遺跡で、つい先頃そのような遺物が見つかった。サラゴサ大学のピラール・ウトゥリージャ・ミランダらのチームは、洞窟の地層から出土した二つの茶色い石に刻まれた模様を調べた。石はそれぞれ九〇〇~一三六〇グラムほどの重さで、一つは獣脂のランプを兼ねていた(真ん中のくぼみに獣脂が入れられていたようだ)。二つの石に刻まれた模様は、洞窟周辺の土地の地図かスケッチではないかとチームは考えた。彼らは模様のなかの定型化された山、池、川を特定し、周辺の風景の特徴に一致するとした。とくにラン7プでない方の石は、一本の川が二つの山の近くで二本の小川と合流する様子を表していて、一方の山は洞窟の入口から見える山にとてもよく似ている。また同じ石の別の部分に刻まれた数本の線は、春に洪水で川が周辺の牧草地に氾濫するときの水路と一致するという。

 もしこの解釈が正しいとすれば、氷河期のヨーロッパの山の芸術的表現が、初めて確認されたことになる。また水路が描かれた初めての確かな例にもなる。この模様のなかで風景の要素とされるもの〔山、池、川〕は、どれも一般に非具象的と分類される記号を使って表現されている。というわけで、次の問いに立ち返ろう。幾何学記号のうち、真に抽象的な記号はどれだけあるのだろう? 私たちが思っているより多くの具象記号が、この分類には含まれているのだろうか?

 アバウントゥス洞窟で発見された石が、周辺の地形を表すスケッチや地図のようなものだとする、ウトゥリージャ・ミランダらの議論には説得力がある。彼らが川を表していると断定したしるしは、私がコア渓谷で見た曲折模様の線刻にも似ている。地図ではないかと考えられるポータブルアートは、ほかにもある。とくに東ヨーロッパのドルニ・ヴィエストニッツェとパヴロフの遺跡の周辺で出土したものだ。このことから、風景の特徴を平面的に表現する慣習が、すでに広く普及していた可能性すらある。もしそうであれば、ほかのポータブルアートや、非具象的と考えられてきた壁画を、この視点に立って検討し直す必要があるだろう。ただ、どんな説についてもいえることだが、何か特定のものを探そうとすると、自分の見たいと思うものが見えてしまうことも多い。そのことに気をつけながら、航空データや考古学、環境関連の情報を注意深く用いれば、幾何学記号のなかに初期の地図製作の試みを発見できるかもしれない。

 曲折模様などの非具象的な記号が風景の描写であることが解明できるのは、とてもすばらしいことだ。だがこのことはさらに重大な意味をもっている。アバウントゥスの地図は、自然の描写というだけでなく、『初期の現生人類の空間認識、計画、組織化の能力』について理解を深めるヒントになるかもしれないのだ。どんなに単純なものであれ、これほど昔に地図がつくられていたのだとしたら、地図製作の起源が数千年繰り上げられるだけでなく、当時すでに『人工的な記憶装置』が生み出されていたことが強力に裏づけられるだろう。」

 

「初期の現生人類がこの能力を身につけた過程を研究しているフランチェスコ・デリコは、人工的な記憶装置(AMS)を『身体の外で情報を記録、貯蔵、伝達、処理する手段』と定義する。コンピュータはAMSの一種だし、文字もそうだ。要は、情報を頭の外で符号化〔情報を一定の規則にしたがって抽象化すること〕、貯蔵し、意のままに獲得、利用できるようにするすべての仕組みをいう。こうした抽象化には高度な認知機能が必要とされ、この種の装置を生み出し、利用できることが知られている種は、現生人類を置いてほかにない。地図もAMSの一種だから、もし太古の人々が身の周りの世界を地図に表していたのだとすれば、彼らがほかの種類のAMSも利用していた可能性は高くなる。そこでAMSの一種である、記憶補助と記数法(数を表す方法)を説明して、この章の締めくくりとしよう。

 記憶補助とは大まかにいえば、情報を呼び出すのに役に立つあらゆるものをいう。記憶補助にもいろいろあるがここでとりあげるのはモノによる記憶補助、たとえば暗誦補助(数珠など)や計算補助(刻み棒など)だ。暗誦補助は、正式な文字体系をもたない文化で用いられることがある。起源神話や部族の歴史を正確に語り、この情報を人々や世代間にしっかり伝える必要があるからだ。近年の文化では、視覚的、触覚的な暗誦のヒントになるしるしをつけたもち運びのできる品が、記憶補助に使われることが多い。しるしを手がかりに物語の重要な要素を思い出し、物語を正しい順序で伝え、漏れがないようにする。物語の主要人物や風景を表した絵や、物語の進行に沿った線や非具象的なモチーフを使った、より抽象的な記憶の手がかりが用いられることが多い。

 考古学研究で初めて記憶補助が言及されたのは、一八〇〇年代末のことだ。氷河期の遺跡の発掘が始まるや否や、刻み目や線、十字形、その他の幾何学模様のついた石や骨、枝角製の遺物が次々と発見された。このような記号が暗誦補助や刻み棒、とくに後者かもしれないという考えは、かなりの注目を集めた。フランスではこうした記号は『狩りのしるし』と呼ばれ、狩人が獲物の数を記録するためにつけたと考えられた。刻み棒はその名の示す通り、棒を記憶補助として、ものを足し合わせたり数を管理したりする記数法(数を表す方法)の一種である。最近の狩猟採集民の間でこの種の記数法が広く用いられていることから、この説が最も可能性が高いと考えられてきたが、そのほか天文情報の記録、数学的体系の原型、日数や季節、年を把握するための初期の方法といった説も出されている。

 このような見解の問題点は、証明が困難だということだ。たとえ氷河期のヨーロッパに住んでいた初期の人類が実際に数を数える方法をもっていたとしても(その可能性は高いのだが)、彼らが何を数えていたのかも、どんな数体系を用いていたのかすらわからない。ニー世紀の現在、ほとんどの国が一〇進法の体系を用いているが、古代シュメール人は六〇進法を主として、一〇進法を補助的に使っていたし(現代の一時間=六〇分と一回転=三六〇度は、この慣習を受け継いだものと考えられている)、北米の土着民の伝統的な数え方には八(指の本数ではなく、指と指の間の数)を基本にしたものもあった。遺物に並ぶ線の『読み方』を知るすべはなく、多くの研究者がこの研究自体を断念してしまった。」

 

「そこに登場したのがアメリカのサイエンスライター、アレクサンダー・マーシャックだ。そもそものきっかけは、彼が宇宙計画の歴史的意義に関する著書を執筆していた一九五〇年代末に、数学の起源に関する情報を前書きに盛り込むために、はるか氷河期にまでさかのぼり、このような刻み目やしるしのある遺物をたまたま知ったことだった。マーシャックは本を書き終えてからも、旧石器時代の遺物に描かれた線や点の集合が、数を数えるためのしるしなのではないかと考え続けた。氷河期に数を数える方法(計数法)が存在したかどうかも定かでないのに、どうやって調べればいいだろう? 彼は突然ひらめいた。検証できる数字がある。月の暦だ。いろいろな数のまとまりがあっても、太古の人々が何を数えどんな数体系を用いていたのかがわからなければ、それらを区別することはできない。だが月の周期は古今東西変わらない。そこで彼は遺物に月の周期を記録したしるしがないかどうかを調べた。結果、ヨーロッパ中の多くの遺物に、二八本または二九本の線の集合が見つかったのだ。またそうした集合が三つか四つ並んだものもあった。彼はこれらが季節を表しているのではないかと考え、一九六〇年代後半と一九七〇年代前半の風潮を尻目に、線や刻み目のそばに描かれた動物や魚、抽象記号を、季節に関係する情報と断定した。たとえばある遺物に刻まれたサケの絵は下あごが曲がっているが、それは産卵期にしか見られない特徴だ。シカの線刻画についても同様の指摘をし(発情期がすむと角が抜ける種がある)、羽状記号やその他の幾何学記号が、決まった季節にしかとれない植物を表しているとさえ指摘した。

 マーシャックの説は、氷河期の芸術に関する当時の定説に真っ向から対立するものだった。当時はまだ男性女性の二元論的世界観が幅を利かせていた。そこへ門外漢の彼がやってきて、線刻は初期の時間管理法であり、幾何学記号は実世界の事物の定型化された描写だと主張したのだ。それでも、マーシャックの説に真剣に耳を傾けた研究者もいた。

 マーシャックは、遺物の検証に顕微鏡を用いる体系的な分析手法をいち早くとり入れた人物でもある。すべてのしるしが一度につけられたのか、長期にわたって一つずつつけられたのかを解明するために、複数の道具が使われた痕跡や、しるしのつけ方(深さや角度)の変化を示す証拠を探した。もしも遺物が日数や月の満ち欠け、季節、時期に関するその他の重要情報(儀式を行う時期など)を把握するために使われていたのなら、刻み目は長期にわたって一つずつつけられたはずだと考えたのだ。

 マーシャックの研究では、明確な結論は出なかった。遺物のしるしは、月の暦を表していることがわかるようなまとまりに必ずしも分かれていなかった。それでも一部の遺物についてはこの説が確かにあてはまるように思われたし、より重要なことに、この研究を機に抽象記号が計数法や時間管理法として用いられていた可能性が検討されるようになった。この驚くべき認知的飛躍は、手の指を数えることから始まったというのが、大方の研究者の一致した見解だ。しかし、先史時代に関わることはたいていそうだが、記数法や計数法は、農耕開始以降、食料の在庫や取引を管理する必要性から生まれたと考えられていた。古人類学者のサリー・マクブレアティは次のように説明する。『最初期のホモ・サピエンスは、おそらくスプートニクを発明するのに必要な認知能力をもっていた。だが彼らにはまだ発明の積み重ねがなく、そんなものを発明する必要もなかった』。しかし、もしかすると周りの世界にあるものを数え記録する必要は、すでに生じていたのかもしれない。過酷な環境に暮らす人々にとって、時間を把握し管理する能力は大いに役立つただろうし、また空間認識能力〔身のまわりのものを認識する能力〕が高まれば、狩りをよりよく組織し、周囲の資源をよりよく活用できるようになっただろう。」

 

「刻み棒とおぼしき遺物の多くに見られる幾何学記号からは、記号の機能についてまた別の手がかりを得ることができる。もしも線などの非具象的な記号が、時間や数を把握するために使われていたのなら、そのことは記号がより抽象的な方法で用いられていたことの確かな証拠になる。ここでサン・ジェルマン・ド・ラ・リヴィエールの首飾りの記号に戻ろう。歯に刻まれたしるし(数本の線、または線と十字形、星形、謎のπ記号の組み合わせ)は、記憶補助の特徴の多くを備えている。数本の線は特別なものの数や、特定の時期を把握するための記号だったのかもしれない。また歯は何らかの暗誦補助か、部族の重要な情報を保存する『外部ストレージシステム』だったのかもしれない。その場合、それほど重要な情報をなぜ女性と一緒に埋葬したのかという疑問が生じるが、もしかすると同じ情報を記録した品がほかにあったのかもしれないし、価値が高く重要な個人の遺品を副葬品に含めるのは太古からある慣習だ。いずれにせよ歯の記号は意味深く、単語や概念を直接表す記号とはまたちがった意味で、壁画の記号をよりよく理解する手がかりになるだろう。

 多くの言語学者が、暗誦補助や刻み棒のような記憶補助を、原文字に最も近い種類の図形的コミュニケーションと見なしている。なぜならここでは、記号はもはや事物や対象を直接表すものではなく、むしろ記号の『読み手』が何かを思い出したり、時期を把握したり、ものの数を記録するといった、より高次の象徴構成能力を必要とする行動を行うための手引きとなるからだ。ものごとと記号との間のそのような抽象的な関係は、やがて間接的な対応関係になる。これは、文字体系を生み出すために欠かせない、重要な認知的前進なのだ。

 これほど多くの可能性があるのに、確実にいえることはほとんどない。幾何学記号という分類を注意深くまとめたいま、今度はその分類に入れられた、種類の異なるイメージの実態をよりよく表すために、いったんまとめた分類を再び分割することが、私の次の目標になる。幾何学記号という分類に、武器、植物、木、川や水路、星など、実世界のものを表す記号が含まれているのはまちがいない。とくに羽状記号はその重要な候補の一つだ。まずは羽状記号を見直し、具体的な対象を表していると見なせるものがあるかどうかを考えてみたい。その一方で、確証のもてない記号については、さしあたって非具象記号のままにしておくしかないだろう。だが言語学研究をとり入れ、象徴が形成される過程を理解したいま、私には大多数の記号が、たとえ何を表したものかはもはやわからなくても、具体的なものごとを絵で表そうとする試みから始まったように思われるのだ。

 私たち研究者は、一般にポータブルアートとロックアートを分けて考えるが、実際にはどちらも同じ芸術的慣習に属するのだから、一方から得られた知見はもう一方にもあてはまるはずだ。スペインのアバウントゥス洞窟の地図は、両者が重なり合う可能性を示している。あのような文脈で地形の特徴が描かれたのなら、ロックアートにも同様のテーマのイメージが含まれている可能性がある。究明すべき問題がまた増えてしまった!

 それでは次に氷河期の超自然的世界について考え、幾何学記号がトランス状態にあるシャーマンの幻覚から生まれた可能性を検証してみよう。」

 

「洞窟には、どこかこの世のものとは思えないところがある。洞窟は古今の多くの文化でスピリチュアルな行為の重要な舞台とされるため、氷河期の芸術とシャーマニズムとの関連がいち早く指摘されたのもうなずける。初期に提唱された説の多くは退けられ、忘れ去られたが、この解釈は一九八〇年代末に神経心理学の新たな知見の裏づけを得て、再び脚光を集め始めた。この説が再評価されたのは、人間の視覚と神経系に関する理解が進み、意識変容(トランス)状態でどのように機能するかがわかってきたことが大きい。

 このとき明らかになったのは、現生人類であれば、いつどこで暮らしていたかにかかわらず、まったく同じ目の機能と神経系をもっているということだ。つまり、意識変容状態が引き起こす生理的反応も、古今東西を問わず万人共通ということになる。神経心理学モデルを岩壁画の研究に初めてあてはめたのは、考古学者のデイビッド・ルイス=ウィリアムズと神経科学者のトーマス・ドーソンだ。彼らが注目したのは内視現象、つまり目そのものが生み出す抽象模様である(エンドブティックという言葉は『目のなかから』という意味のギリシャ語に由来する)。人は意識変容状態にあるとき、神経系の作用で抽象的な模様が見えることから、旧石器時代のヨーロッパに見られる幾何学記号はトランス状態の産物かもしれないと、ルイストウィリアムズとドーソンは主張する。

 最近の神経心理学研究により、(トランス状態にあるシャーマンのように)意識変容状態にある人には、一定の抽象図形が見えることがわかった。意識変容状態にある人なら誰でも見える眼球内のイメージ(眼内閃光とも呼ばれる)は、目を閉じていても見える。この視覚現象は複雑で多様だが、網目、ジグザグ、点、渦巻き、懸垂曲線〔ヒモの両端をもって垂らしたときにできる曲線〕などの幾何学形状をとり、光り輝き、点滅し、移動し、回転し、拡大するパターンとして認識される。要は、人はトランス状態に陥ると眼圧が高くなり、網膜内の細胞が発火して幾何学的な模様が見えるのだ(目を閉じて眼球を圧迫しても同じ模様が見える)。どんな文化的背景をもっている人でも、神経系は必ず同じ方法で反応する。そして氷河期ヨーロッパの洞窟の壁にこのような抽象図形の多くが出現することから、ルイス=ウィリアムズとドーソンや、その後この現象を調べたフランスの岩石芸術専門家シャン・タロットなどの研究者は、意識変容状態に陥った太古の人々が、内視現象を壁画に表したものではないかと提唱した。」

 

「現時点では、氷河期の記号の意味を、どれか一つでもはっきり解明できる可能性は、きわめて低いと予測せざるを得ない。それでも一〇年、二〇年前には解決不能と思われていた問題の多くに、今では答えが出ている。私の予測が外れることを願うばかりだ。最近では中国河南省の賈湖遺跡で、九〇〇〇年前から八〇〇〇年前の記号が刻まれた亀の甲羅が発掘された。これらの記号は、その約七〇〇〇年後の殷(商)の時代に使われていた甲骨文字とは、時代と文化もかけ離れているが、李学勤らの研究者のチームは、こうした初期の記号が甲骨文字の前身だった可能性を注意深く示唆する。また李らは、中国の社会が当時すでに定住を基本とした都市型の生活様式に向かっていて、文字が生まれる一般的な条件が整いつつあったと指摘する。李らは甲羅の記号を、その後の数千年間に周辺に現れた、かたちの似た文字(目や数字、窓など)と比較することによって、記号の意味をごく慎重に解釈している。だが中国の文字の起源を研究する学者の多くは、賈湖の記号とその後の時代の文字は距離が離れすぎているため、比較は困難だと考えている。

 中国にも洞窟芸術があり、これまで国外にはほとんど情報が出回らなかったが、最近になって事情が変わりつつある。もしも賈湖の近くに氷河期末期の岩絵遺跡があり、そこで賈湖の亀甲と同じ記号が見つかれば、距離的、時間的に近いことから、氷河期が終わり狩猟採集型の生活様式から定住型の農耕生活へ移行しても、旧石器時代の記号が使われ続けた興味深い例になることだろう。

 より身近なところでいえば、ドナウ川流域で使われていた八〇〇〇年前の原文字である、ヴィンチャ文字の例がある。この文化の埋葬地から、絵文字的なしるしや非具象的な記号が刻まれた遺物が発掘された。そしてここには氷河期の岩壁画に見られる記号のいくつかが、まったく新しい一連の文字とともに見られるのだ。残念ながら現時点で知られているのは墓の短い碑文だけで、ヴィンチャ文字はまだ解読されていない。

 遠い祖先たちが何をきっかけに、意思を伝えるための記号を生み出したのかを、私はぜひとも知りたい。この問いへの答えを求めて、これからも洞窟を這い回り、データを集め続けるだろう。記号が長い歳月の間に使用され、発展してきたパターンを研究することで、記号を生み出した人たちについていろいろなことがわかる。幾何学記号は、抽象化と象徴的思考というすばらしい能力が備わった知性、つまり完全に現代的な知性の産物だと、私は確信している。もしも祖先たちが図形によるコミュニケーションの世界におずおずと足を踏み入れなかったなら、その子孫である私たちが今日あたりまえのように使っている文字体系を生み出す上で必要だった認知能力は存在しなかっただろう。もしもアフリカ、ヨーロッパなどの遠い祖先が、各地に散らばった人類の仲間とつながるための、この革新的な手法を編み出さなかったなら、私たちはどんな偉業もなし得なかつた。それに、もしもあの最初の記号が生み出されなかったなら、あなたと記号の話を分かち合うためにこの本を書くことさえできなかったのだ。」